コ ラ ム

 

 

(1)カセ(※)田庄の開発と文覚井(もんがくゆ)

 カセ(※)田庄(現、かつらぎ町笠田付近)は、京都にある神護寺〔じんごじ〕の庄園として、元暦〔げんりゃく〕元年(1184)に成立しました。カセ(※)田庄には領域を描いた2枚の庄園絵図があり、1枚は神護寺、もう1枚<写真1>は地元の宝来山(ほうらいさん)神社に残されています(いずれも、重要文化財)。宝来山神社には、江戸時代初めに作られた賀勢田庄絵図<写真2>も残されています。この賀勢田庄絵図は、静川庄〔しずかわのしょう〕(現、紀の川市名手上・平野・名手下)との間で起こった用水争いの際、自らの主張を正当化するために、カセ(※)田庄が作成したものです。絵図の右上から左下に紀ノ川の支流・穴伏川〔あなぶしがわ〕(北川・静川とも呼ばれています)が流れ、川の左岸には四本の用水路が描かれています。このうち上流から一・二・四本目の取入口には堰〔せき〕があり、用水権をもつ村の名前が記されています。この三本の用水路は、現在、文覚井(一の井)・移井〔うつりゆ〕(二の井)・高田井〔たかだゆ〕(三の井)と呼ばれています。

 文覚井(一の井、県指定史跡)は、文覚上人が寿永〔じゅえい〕年間(1182〜85)に開削したという伝承のある用水路で、三本の用水路は文覚井→移井→高田井の順に開削されたといわれています。しかし、カセ(※)田庄が成立した12世紀末の状況を記した文治元年(1185)のカセ(※)田庄坪付帳をみると、カセ(※)田庄の開発はまず西半分から行われていたことがわかります。カセ(※)田庄絵図<写真1>も庄域の西半分を中心に描いています。西半分の土地を潤す中心の用水路は移井であり、丘陵の鞍部を切り開く文覚井に比べて、移井は開削も容易だったと考えられます。以上の点から、移井は12世紀末には築かれていたと考えるのが自然です。

 戦国時代になると、カセ(※)田庄の東部にある東村に是吉という有力者が現れ、東部の開発が進みます。このころには、文覚井も築かれていたようです(文覚井の取入口は東村領にあります)。なぜ、後から築かれた用水路が「文覚井」と呼ばれるようになったのでしょうか。明確な回答は用意できませんが、そこにはカセ(※)田庄に住む人々の命をかけた水をめぐる闘いと知恵があったと考えられます。

 近年、地域の人々の生活・生業、風土によって形成された景観地を「文化的景観」と呼び、文化財として守っていこうという考え方が出されています。カセ(※)田庄故地も、また文化的景観が残る地域の一つといえるでしょう。

当館主査学芸員 前田正明 

 (※)「カセ」は、漢字が出ないため、カタカナ表記にしています。「カセ」の漢字は、木へんに「峠」のつくり部分です。

<写真1>重要文化財 紀伊国カセ(※)田庄絵図
(宝来山神社蔵)

<写真2>重要文化財(附) 慶安三年賀勢田庄絵図(宝来山神社蔵)

 

 

 (2)江戸幕府の国絵図作成と紀伊藩

 国絵図は、古代律令〔りつりょう〕制下の行政区画である「国」を単位にして作られた絵図です。江戸幕府は少なくとも、慶長〔けいちょう〕・正保〔しゅうほう〕・元禄〔げんろく〕・天保〔てんぽう〕の4回、国絵図を作成しています。現在、幕府に提出された元禄国絵図の一部と天保国絵図が東京の国立公文書館に残され、重要文化財になっています。

  正保国絵図以降、縮尺は1里を6尺(およそ2万1600分の1)に統一され、巨大なものとなりました。紀伊国の天保国絵図は東西578cm×491cmにも及んでいます。大名領・天領〔てんりょう〕・旗本領など支配領域が錯綜〔さくそう〕した江戸時代に、国郡単位である国絵図が作成された背景には、国土の全体が最終的には幕府(将軍)に帰属することを宣言する意味があったとされています。

紀伊藩領と高野山寺領とに分かれていた紀伊国では、紀伊藩が国絵図作成の責任者(絵図元)となり、幕府に提出するための清〔せい〕絵図を調えました。紀伊国絵図<写真1>は慶長国絵図の絵図様式と共通性がみられる国絵図の縮図です。

<写真1>紀伊国絵図(和歌山市立博物館蔵)


 ところで、最近の調査から、紀伊国の元禄国絵図の作成に関わることが少しわかってきました。紀伊藩家老・三浦為隆
〔ためたか〕(1659〜1732)が記した年中日記によると、元禄10年(1697)に絵図の作成が始まり、評定所で絵図の仕様などの指示を受けることになっていましたが、紀伊藩(紀伊徳川家)では格別の扱いを受けていたようです。また、必要に応じて「古絵図」も貸し出されました。4年後の元禄14年に清絵図ができあがり、江戸に運ばれた清絵図は「本郷之絵図小屋」で、幕府役人の「吟味〔ぎんみ〕」(「下絵図改〔したえずあらため〕」)を受けています。<写真2>

<写真2>年中日記
      (部分・元禄14年8月6日条、和歌山大学紀州経済史文化史研究所蔵)


 また、紀伊藩のお抱え絵師を務めていた須藤久甫
〔すどうきゅうほ〕が、自家の先祖書<写真3>のなかで、「御絵図御用」を務めたと記しています。おそらく、国絵図の作成に関わったと考えられます。

 残念ながら、紀伊国の国絵図については、幕府に提出したものは天保国絵図しか現存せず、提出する前の控図や写図などもほとんど残っていません。

<写真3>須藤家先祖書親類書(部分、和歌山県立文書館蔵)

当館主査学芸員 前田正明 

 

 

(3)高野山寺領で作成された文化12年の村絵図

 紀伊国には、紀伊徳川家が支配する紀伊藩とは別に、高野山が支配する高野山寺領(2万1300石)がありました。現在の橋本市から紀の川市(昔の伊都郡・那賀郡)の紀ノ川以南の地域にほぼ該当します。寺領は僧侶組織の違いから、さらに、学侶方〔がくりょかた〕・行人方〔ぎょうにんかた〕・聖方〔ひじりかた〕という3つの支配領域に分かれています。


   <写真1>那賀郡毛原庄中村絵図(個人蔵)


<写真2>左絵図の裏書

 那賀郡毛原庄中村絵図〔ながぐんけばらのしょうなかむらえず〕<写真1>は、寺領行人方に属した毛原中村(現、紀美野町)の領域を描いた村絵図です。寺領のうち、行人方と修理方〔しゅりかた〕(行人方と学侶方との共同管理)の村々では、文化12年(1815)に共通した描写技法のある絵図が作成されています。
 この絵図からその特徴をみてみましょう。村の領域は、「□四方分」(村境の四隅)・「△三ツ境」(2村と隣接する地点)・「○町間切」(村境線上にある測量点)で示されています。山野は緑色(樹木が一部にみえる)、耕地は井枡
〔います〕に黄色で彩色され、家屋・堂舎・鳥居などの建造物は定型化した形で描かれています。距離や方位は正確で、集落名(垣内〔かいと〕名)、谷や尾根筋名、社寺名などの様々な情報が、朱書きされています。連続した山頂を墨線で結ぶ地形表現は、他の絵図にはみられない独特のものです。裏書<写真2>には、1町を6歩(6000分の1の縮尺)にして、画工(絵師)である西岡数馬が描いたと記されています。この人物については、今のところ詳しいことはわかっていません。

   
<写真3>風土記附絵図解 中村四方町間帳(個人蔵)


<写真4>絵図と町間帳を入れた袋(個人蔵)

 風土記附絵図解〔ふどきつけえずかい〕 中村四方町間帳〔なかむらしほうちょうげんちょう〕<写真3>という文書が、同じ袋<写真4>に入っていることから、この絵図が文化3年(1806)に始まった『紀伊続風土記〔きいしょくふどき〕』(紀伊国の地誌)の編さんと関連して作成されたことがわかります。風土記の編さんは紀伊藩の主導で行われ、何度かの中断を経て天保10年(1839)に完成しました。しかし、同じような絵図は行人方と修理方の村にしかみられません。行人方で行われた編さんが藩領とは少し違っていたことを示しています。また、絵図は領主用と村用の2セット作成されました。袋に「毛原庄中村附」とあることから、村用に作成されたものであることがわかります。

当館主査学芸員 前田正明 

 

 

(4)城下町和歌山と和歌山城

 永禄6年(1563)和歌浦弥勒寺〔みろくじ〕山から鷺森〔さぎのもり〕に真宗寺院(現在の鷺森別院)が移されて以来、和歌山は寺内町として発展を遂げました。その後、天正13年(1585)に羽柴秀吉による紀州攻めがあり、その直後に和歌山城の築城が始まります。和歌山城の築城に伴って、和歌山は城下町として整備されるようになりました。明治初年の記録から、当時和歌山は全国9番目の人口を誇る都市であったことがわかります。

    

 和歌山城を中心に形成された城下町を一望できるのが、城下町絵図です。城下町絵図はいくつか残されていますが、今回は、江戸時代中ごろに描かれた城下町絵図を展示しています。軍事的な要因から城内は詳しく描かれていません<写真1>。城下町絵図のほとんどは、こうした描写になっています。

 

 

 

 

 

 

<写真1>和歌山城下町絵図
                    (部分、和歌山県立博物館蔵)

 

 和歌山御城内惣絵図は、1間(6尺5寸=約197p)を2分に縮小した(約325分の1の縮尺)基準格子がへら書きされています。和歌山城内部にある各郭〔くるわ〕の配置や建物・庭・石垣の組み方まで詳細に描かれ、天守閣を中心に方位が墨引きされているのがわかります。この絵図は、二の丸にある部屋の名前から寛政9〜11年(1797〜99)に作成されたと考えられています。一方、天守閣をみると、貼紙〔はりがみ〕がみられ、貼紙の下の元の紙には、弘化3年(1846)の落雷によって焼失する前の天守閣(創建当初)の配置が、貼紙には嘉永3年(1850)に再建された天守閣の配置が記されています<写真2>。このように、絵図を詳しく観察することで、この絵図が寛政期に作成され、その後部分的な加筆・修正が施されていることがわかります。



<写真2>和歌山御城内惣絵図(部分〔天守閣〕、和歌山県立図書館蔵

 

    

 現在の天守閣は、昭和20年(1945)の空襲によって焼失した後、昭和33年(1958)に再建された三代目の天守閣です。一方、「二の丸庭園」と呼ばれている場所には、藩主の居館であり、藩の政庁でもあった建物(東側から表・中奥・大奥と呼ばれた)がありました。その西側は堀を隔てて藩主の隠居所であった西の丸があり、二の丸と西の丸は御橋廊下〔おはしろうか〕で結ばれていました<写真3>。昨年、この御橋廊下が再建され、公開されています。

 

 

<写真3>同(部分〔御橋廊下〕、和歌山県立図書館蔵)

 当館主査学芸員 前田正明  

 

 

 (5)絵図に描かれた石積み堤防

 近年、巨大地震到来の危険性が叫ばれていますが、江戸時代、和歌山に被害をもたらした大きな地震として、慶長10年(1605)の慶長地震、宝永4年(1707)の宝永地震、嘉永7年(1854)の安政地震をあげることができます。絵図のなかには、こうした地震などの災害の被災状況を記録したり、津波や高潮などから土地を守るために築かれた堤防などを描いたりしたものがあります。

    

 異船記は、紀州沖に異船(ロシア船)が出現した際、異船の動向や紀伊藩の対応を記したもので、巻八にはお抱かか〕え絵師の野際蔡真〔のぎわさいしん〕によって、沿岸各所に設けられた砲台などの海防施設が描かれています。このなかに、水軒〔すいけん〕付近にあった石積みの水軒堤防(県指定史跡)も描かれています<写真1>。近年、水軒堤防は2か所で発掘調査が行われ、異船記に描かれた堤防が現存していることが確認されました。

 

 

 

<写真1>異船記(部分、和歌山県立図書館蔵)

 嘉永4年(1851)以降の作成である近海全図〔きんかいぜんず〕は、和歌山城下近海の海防施設を記した絵図で、紀泉境の小島浦(現、大阪府岬町)から有田川河口付近までの海岸線のほか、淡路島の洲本付近も描かれています。この絵図には、水軒付近<写真2>と加太〔かだ〕<写真3>の2か所に、石積み堤防が描かれています。


 <写真2>近海全図(部分〔水軒付近〕、和歌山県立図書館蔵)

<写真3>同(部分〔加太浦付近〕、和歌山県立図書館蔵)    

 異船記に描かれた堤防とは別に、水軒付近には防波堤らしき石積みもみえ、寛政11年(1799)和歌山を訪れた司馬江漢〔しばこうかん〕の紀州雑賀崎浦図〔きしゅうさいかざきうらず〕(個人蔵)にも描かれています。一方、加太浦付近にも防波堤らしき石積みがみえ、紀伊名所図会〔きいめいしょずえ〕の挿し絵を担当した岩瀬広隆〔いわせひろたか〕の加太浦図〔かだうらず〕(個人蔵)にも描かれています。

 被害を受けた場所が修復されると、昔どのような被害を受けたのかがわからなくなります。また、堤防などの治水施設は技術の進歩によって近代化されることが多く、従来使われていた施設はその役割を失い、その姿を失っていきます。絵図には、そうした失われた情報が記されており、先人たちが自然と闘った歴史をよみとることができます。

当館主査学芸員 前田正明 

コラムは、これで終了です。