企画展「根来−発掘された中世都市−」の連載コラムを
5回にわたって、掲載します。

掲載予定日一覧

@ 6月18日 UP
A 6月24日 UP
B 7月 2日 UP
C 7月11日 UP
D 7月16日 UP

 

第一回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)

 歴史好きの人なら、「根来」の名前を聞いたことがない人はまずいないでしょう。僧兵、鉄砲衆、秀吉の焼き討ちにはじまって、根来塗や根来の子守歌まで、戦国時代の紀州を語る上ではまさになくてはならない存在と言えます。しかし、その多くは伝説や謎に包まれていて、語る材料の多さに比べて、実像はそれほど明らかではありません。

 一方、十六世紀のヨーロッパで発行された世界地図「メルカトル世界図」に、「Miaco(都)」、「Hormar(近江)」と並んで「Negra(根来)」が記載されていることや、キリスト教布教の目的で鹿児島に上陸したばかりの宣教師フランシスコ・ザビエルが本国に出した書簡の中に「根来」の様子を伝える記事があるなど、同時代の一級史料の中に出てくる根来の姿や、これからご紹介しようとしている出土資料から分かる根来の確かな姿などは、実は意外と知られていないようです。こうした虚像と実像のギャップがまた、根来をさらに謎めいた存在にさせているのかも知れません。

 写真は、現在の根来寺の伽藍の西、ちょうど岩出市の「若もの広場」のやや東の地点から出土した備前焼の徳利です。根来寺が、豊臣秀吉による紀州攻めの兵火に遭っていることはよく知られていますが、この徳利が出土した遺構は、兵火以前に埋没していたとみられる遺構よりは上の土層で、まさに兵火によって焼かれた焼土の土層に混じって出土しました。周辺には礎石立ちの建物や石組みの溝、井戸、石垣などの遺構があり、同様の徳利が他に3口、また茶臼や燭台、白磁製の皿などが出土しており、根来寺を構成する有力な僧房のひとつがここに存在していたことが分かります。

 このコラムでは和歌山県立博物館の企画展「根来−発掘された中世都市−」で展示されている資料を中心に、5回に分けて「根来」の実像をご紹介しようと思います。


第二回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)

 根来寺の旧境内をすっぽりと覆う根来寺遺跡は、1976(昭和51)年、橋本−岩出間を結ぶ広域農道の建設が根来山内で始まったことで初めて知られるようになった遺跡です。それまで、根来寺がかつてどれほどの繁栄をきわめていたかということは、伝承の中でこそ語られていましたが、ほとんどその実像は知られていませんでした。以後、発掘調査は30年以上にわたって続けられ、次第にその姿が明らかになってくるとともに、おそらく当時の日本において最も豊かで、最も大きな都市のうちのひとつが、ここ根来にあったことがほぼ確実となってきました。

 その豊かさを証明する出土資料として、膨大な量の輸入陶磁器があります。青磁は、生地や表面に塗る釉薬に鉄分を含有している関係で美しい青緑色に焼き上げられる陶磁器で、根来寺遺跡では13〜16世紀に中国南部の竜泉窯・同安窯などで焼かれた青磁の碗や皿が多数出土します。写真上は1976年に始まった最初の調査において、現在の岩出市民俗資料館南側の道路敷で出土した青磁の皿です。

 中国製の青磁は、根来寺遺跡においては14世紀代のものが圧倒的に多く、鎌倉時代後半〜南北朝時代のこの時期から、すでに根来寺にこうした富が相当に蓄積されていたことを示しています。根来寺遺跡から出土する輸入陶磁器では中国産のものが大半を占めますが、中には写真下のような安南(ベトナム地方)産のものや、高麗(朝鮮半島)・ルソン島(フィリピン)などで生産されたものもあります。


第三回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)

 根来寺遺跡で出土する輸入陶磁器の大半は、中国南部の竜泉窯・同安窯・景徳鎮窯などで生産された青磁・白磁・染付などですが、時代によってその様相は大きく変わります。

13世紀には同安窯系・竜泉窯の青磁・白磁が少量みられる程度で、むしろ国産の瓦器・土師器・須恵器が主流であったと考えられています。ところが14世紀にはいると、国産の備前焼なども増加する一方で、中国・竜泉窯系の青磁が爆発的に増え始め、青白磁や白磁も多くなってきます。その後、15世紀後半にいたって青磁が減り始めると、代わって景徳鎮窯系の染付や白磁が増え始め、根来寺の最盛期にあたる16世紀には景徳鎮窯の陶磁器が主流を占めるようになります。

 写真は菩提峠へと向かう現在の広域農道沿いの地点において、豊臣秀吉の紀州攻めの兵火による焼土層の中から出土したもので、まさに16世紀後半の根来寺の最盛期に使われていたものです。波濤と飛馬の文様を描き、内外面ともに丸鑿による鎬がけずられています。出土地点は菩提院谷に拠点をもつ行人の僧房跡と思われ、他に青磁・白磁・染付の碗や瀬戸焼の瓶子や天目茶碗など多くの陶磁器が出土しています。行人は根来寺の中では下級僧侶と位置づけられていましたが、寺院内外での活発な経済活動などによって暮らしぶりはむしろ豊かで、出土資料からは根来寺境内の縁辺にあたるこうしたエリアでも、豊かな富の蓄積があったことを如実にうかがうことができます。


第四回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)

 根来寺で活動する僧侶のイメージとして広く流布しているのは、いわゆる「僧兵」としてのイメージではないでしょうか。白い頭巾で頭をすっぽりと覆い、鉄砲を持って闊歩する−−−。そのようなイメージがいつ頃生まれたのか定かではありませんが、少なくともこうした姿は実像には程遠いものと考えられます。

 根来寺のいわゆる「僧兵」とは、教学活動を行う学侶集団とは別に、修験道の行者などを母体とした「行人」と呼ばれる下級僧侶たちの集団です。中でもよく知られているのは泉識坊でしょう。泉識坊は岩室坊・閼伽井坊・杉之坊とともに、根来寺のいわゆる「四旗頭」のうちのひとりとして、とくに戦国時代後期においては根来寺行人方のリーダー的存在でした。その住房は蓮華院谷と呼ばれる谷筋にあり、現在、広域農道が根来川を渡る交点付近にあったと推定されています。この付近からは、城郭を思わせるような、高さ四メートルにも及ぶ堅固な高石垣や玉石を敷き詰めた庭園、半地下式倉庫などの遺構が検出されており、その隆盛ぶりがうかがえます。

 しかし、その一方で、こうした遺構を覆う整地土層から、写真のような金属製法具が多数、出土しています。これらは密教の法要などで使用されるもので、独鈷杵は煩悩を打ち砕く武器、華瓶や六器は花や供物を仏前に供えて供養するためのもので、いずれも江戸時代以前のものと考えられます。何かと武力的なイメージの強い泉識坊ですが、こうした密教法具の出土は、一般的に知られている「僧兵」のイメージを塗り替えるものとして貴重な資料です。


第五回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)

 根来寺旧境内の西に広がる根来ゴルフクラブは、かつて西山城と呼ばれる根来寺の出城があった場所です。このゴルフ場の東をかすめる形で計画された県道泉佐野岩出線の改良工事に先だつ発掘調査において、西山城に付属すると考えられる堀の跡が検出されました。堀は北側・南側の2ヶ所で検出され、いずれも土橋を伴う大規模なもので、いわゆる根来寺の「山内」と呼ばれる旧境内の出土資料とは大きくその様相を異にするさまざまな資料が出土しています。

 例えば写真のような木製五輪塔もそのひとつです。五輪塔とは、一般的には、亡くなった人の供養のために造立する石造の供養塔のことをいい、下から、地・水・火・風・空輪の五つの部分からなるために、五輪塔と呼ばれています。地・水・火・風・空は、密教において、万物を造り出す元素とされ、中国からもたらされた五大思想を日本において独自に造形化したものと言われています。この木製五輪塔は、西山城の東側の堀跡に堆積した土砂の中から出土したもので、全体の長さは19.0pを測ります。中世根来寺周辺の素朴な庶民信仰の遺物ないしは何らかの祭祀に用いられたものと考えられますが、西山城の堀跡からは、根来寺の門前町やその周辺で暮らしていた庶民の生活に関する資料が多く出土していると言えるでしょう。

 この他にも、西山城の堀跡からは、杉や檜の薄板を加工して作られた曲物や柄杓、桶、下駄、漆器椀などの木製品なども出土しています。西山城は、こうした木製品の生産工房などがあった西坂本の門前町にも近く、出土資料はそうした地域性をも反映したものかと考えられます。

 連載コラムの「根来」は今回で終わります。