第一回目 (執筆 当館学芸員 高木徳郎)
歴史好きの人なら、「根来」の名前を聞いたことがない人はまずいないでしょう。僧兵、鉄砲衆、秀吉の焼き討ちにはじまって、根来塗や根来の子守歌まで、戦国時代の紀州を語る上ではまさになくてはならない存在と言えます。しかし、その多くは伝説や謎に包まれていて、語る材料の多さに比べて、実像はそれほど明らかではありません。
一方、十六世紀のヨーロッパで発行された世界地図「メルカトル世界図」に、「Miaco(都)」、「Hormar(近江)」と並んで「Negra(根来)」が記載されていることや、キリスト教布教の目的で鹿児島に上陸したばかりの宣教師フランシスコ・ザビエルが本国に出した書簡の中に「根来」の様子を伝える記事があるなど、同時代の一級史料の中に出てくる根来の姿や、これからご紹介しようとしている出土資料から分かる根来の確かな姿などは、実は意外と知られていないようです。こうした虚像と実像のギャップがまた、根来をさらに謎めいた存在にさせているのかも知れません。
写真は、現在の根来寺の伽藍の西、ちょうど岩出市の「若もの広場」のやや東の地点から出土した備前焼の徳利です。根来寺が、豊臣秀吉による紀州攻めの兵火に遭っていることはよく知られていますが、この徳利が出土した遺構は、兵火以前に埋没していたとみられる遺構よりは上の土層で、まさに兵火によって焼かれた焼土の土層に混じって出土しました。周辺には礎石立ちの建物や石組みの溝、井戸、石垣などの遺構があり、同様の徳利が他に3口、また茶臼や燭台、白磁製の皿などが出土しており、根来寺を構成する有力な僧房のひとつがここに存在していたことが分かります。
このコラムでは和歌山県立博物館の企画展「根来−発掘された中世都市−」で展示されている資料を中心に、5回に分けて「根来」の実像をご紹介しようと思います。
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