▼ 作 品 紹 介

 

 

紀の川市指定文化財

木食応其坐像  一躰

天正18年(1590

興山寺蔵(紀の川市)

 興山寺の本堂に安置されている応其像です。頭の部分は煙のため黒くなっています。僧衣に袈裟をつけ、両手は袖に入れて合掌する姿勢で座っています。像内には、天正18年に執事とされる覚栄が造った応其像であると記されています。天正18年は、応其55歳にあたります。正面を見据えた目や引き結んだ唇などその表情からは応其の厳しさがうかがえ、応其の内面を表現しているようにもみえます。

    

国宝

阿弥陀聖衆来迎図  三幅

平安時代(12世紀)

有志八幡講十八箇院蔵

 飛雲に乗った阿弥陀如来と多数の菩薩(聖)が、往生者のもとに来迎する光景を描いています。中央の阿弥陀如来と周辺の菩薩はほぼ正面を向き、観者に迫りくる印象を強める一方で、そのほかの聖衆は手に楽器や幡、華籠などを持ち音楽を奏でています。構図が雄大で、群像描写も絶妙、色彩も豊かで美しく、阿弥陀聖衆来迎図のなかでは最も古く、最大の傑作と評価されています。もともと比叡山にあったもので、織田信長の比叡山焼き討ちで難を逃れ、のちに秀吉の手に入り、応其を通じて、秀吉の母の菩提寺(青巌寺)に奉納されたといわれています。(展示は119日まで)

 

豊臣秀吉朱印状(刀狩令)  一通

天正16年(1588

金剛峯寺蔵

 大高檀紙という大きな紙を使い、あて所は記されていません。条文は三か条で構成され、一条目で百姓が刀・脇指・弓・鑓・鉄砲、その他の武具を所持することを禁止し、その理由として一揆を起こす原因となることを挙げています。一方、第二条・第三条では刀・脇指を取り上げる理由が記され、方広寺大仏殿の釘・かすがいにするため(第二条)と、百姓は農具さえ持ち、耕作さえしていれば、「万民快楽之基」となる(第三条)と記しています。この法令は広く一般に公布されませんでした。百姓に対しては第二条・第三条に記された内容で武具の取り上げを行うが、本当の目的は第一条に記された一揆の停止であるとされています。