「和歌祭」について、4つのトピックスから眺めていきます。


1. 近代の和歌祭(4/28UP)
2. 雑賀踊と和歌祭(5/13UP)
3. 東照宮祭礼と猿引(5/21UP)
4. 和歌祭の舞楽装束(5/27UP)


1. 近代の和歌祭 (執筆 主査学芸員 前田正明)

 今年も5月14日(日)に、和歌山市の和歌浦周辺では、江戸幕府を開いた徳川家康を祭る紀州東照宮の祭礼・和歌祭が行われます。県立博物館では29日(日)から、江戸時代に行われた和歌祭を紹介する、特別展「和歌祭 ―祭を支えた人々、祭に込めた思い―」を開催します。そこで、今回は徳川氏の支配が終わった明治以降、和歌祭がどのように受け継がれていったのか、近代の和歌祭の歴史を紹介します。というのも、江戸時代に行われた東照宮の祭礼が、今日まで続いているのは日光東照宮と紀州東照宮ぐらいで、意外と少ないようです。

 近代に入ると、明治政府は神仏分離の政策をとりました。紀州東照宮でも別当寺である雲蓋院や子院は廃寺に追い込まれたり、社領千石余が没収されたりして、経済的基盤が失われます。和歌祭も一時中断を余儀なくされますが、明治7年(1874)には有志によって再興されたといわれています。その後、明治18年(1885)に徳盛社、明治32年(1899)に明光会といった後援会が設立され、後援会の後押しによって、和歌祭は継続されました。その背景には、旧藩士の働きかけや地元和歌浦の人々の努力も大きかったようです。

 古くから景勝地として有名であった和歌浦は、明治の終わりごろ、改めて観光地として注目されました。大正9年(1920)に行われた藩祖御入国三百年祭では、和歌浦の観光開発に関心を寄せていた京阪電車と南海電車からの寄附があったようです。 さらに、昭和9年(1934)に行われた和歌山城築城350年祭では、初めて和歌山城周辺で渡御行列が行われています。やがて、戦時体制が強まるようになり、昭和12年を最後に和歌祭は中断されることになりました。

 昭和23年(1948)に和歌祭が復活されると、渡御行列は商工祭の一環として行われます。そして、平成14年(2002)から商工祭から独立して、和歌祭は地元和歌浦で行われるようになりました。
         

 写真1 和歌祭図(榎本遊谷筆、個人蔵)

大正9年(1920)藩祖御入国三百年祭で行われた渡御行列を描く。

写真2 御旅所に向かう渡御行列(和歌山県立博物館蔵)
 
大正15年(1926)に行われた和歌祭を撮影した和歌祭写真帖から。



2. 雑賀踊と和歌祭 (執筆 主査学芸員 前田正明)

 和歌祭の渡御行列は、神事に直接関わる渡り物と城下の町人が出した山車や仮装、踊りなどの練り物で構成されていました。練り物の中心にになるのが雑賀踊です。竹の先を細かく切って束ねた簓と、表面に鋸歯状の刻み目を施した簓子を摺りあわせ、拍子を取りながら踊ることから、雑賀踊は「ささらおどり」とも呼ばれました。始まった当初の和歌祭には、雑賀踊はなかったようで、正保3年(1646)の東照宮縁起絵巻(紀州東照宮蔵)に初めて描かれます。雑賀踊は二か所に登場しますが、別の史料から、前方は湊、後方は広瀬から出されていることが明らかになりました。城下町を二分する町(内町・鷺森・広瀬)と湊から出された雑賀踊に挟まれるようにして、さまざまな練り物が出されたようです。

 和歌祭の練り物は寛文5年(1665)を最後に縮小されます。雑賀踊も二か所から一か所になりました。縮小以前の鹿角を付けた姿はみられなくなり、烏帽子形風の兜に三鍬形の前立を付けた姿や置手拭形の兜を被った姿に変わっていきます。寛文5年の縮小は、風流物の祭礼から日光東照宮の神幸行列に近い形に戻そうとする、頼宣の意向が働いた表れではないかと考えられます。

 ところで、鷺森御坊では、和歌祭が行われる少し前の4月6日に雑賀踊のならしが行われました。最も早い記録では、享保20年(1725)に行われていたことが確認できます。また、祭礼当日は、御旅所での神事のあと、東照宮への還御行列が行われますが、最後を飾ったのは雑賀踊でした。

 東照宮祭礼は、近世になって始まった祭礼で、その原形は日光東照宮の祭礼にあったと考えられます。 しかし、各地で行われた東照宮祭礼はやがて、地域性のもつ祭礼に変わっていったようです。
 

 写真3 東照宮縁起絵巻(住吉広通筆、紀州東照宮蔵)


正保3年(1646)家康30回忌の和歌祭を描く。

写真4 和歌祭行列図絵巻(和歌山県立博物館蔵)
 
寛文6年(1666)縮小後の和歌祭を描く。



3. 東照宮祭礼と猿引 (執筆 主査学芸員 前田正明)

 猿引は、門付け芸としての猿廻し芸を行う芸能者です。猿は馬の疫病除けになるとされ、祭礼行列の際は、「先進道守護」(行列全体を先導し、守護する)の役割を持っていたといわれています。一方、猿田彦神が祭礼行列の先導をすることもよく知られています。では、この猿引と猿田彦神はどのような関係だったのでしょうか。幕府のお抱え絵師・狩野常信(1636〜1713)が描いた東照宮祭礼絵巻(日光東照宮蔵)から、日光東照宮の祭礼をみてみると、行列の先頭近くに赤い鬼の面を被った「職事神人」がいて、最初の神輿(東照大権現)と二基目の神輿(山王権現)の間に猿面と猿引がいます。このことから、行列の先導は猿田彦神の役割をした職事神人が行い、猿引は神輿を守護する(道中の悪霊を払う)役割を担っていたと考えられます。各地の東照宮祭礼をみてみると、水戸の祭礼でも、猿田彦神の役割を果たす「申太夫」がいて、途中に猿引がいます。しかし、鳥取の祭礼では、猿田彦神の役割をする「職事金幣持」はいますが、猿引はいません。名古屋の祭礼は、どちらも見当たりません。

 和歌祭の場合はどうでしょうか。元和8年(1622)の最初の祭礼では、先頭に鬼の面を
被った棒振(猿田彦神の役割を果たす)がいて、練り物のなかに城下の米屋町から出された猿引がいました。一方、寛文5年(1665)頃には、後方の雑賀踊のすぐ後に、貴志の甚兵衛がいます。この貴志の甚兵衛は、城下近郊に住む専業化した猿引集団ですが、いつごろから和歌祭に参加するようになったかは不明です。寛文5年の縮小後の行列では、雑賀踊、唐船、鶴の笠鉾、猿引と続き、寛政12年(1800)に餅搗踊が復興されると、猿引は餅搗踊の後ろにきます。新御旅所となった嘉永四年以降、猿引と餅搗踊の順序は入れ替わりました。このように、日光東照宮の祭礼と全国各地の東照宮祭礼を比べると、かなりの変化がみられることがわかります。
 

 写真5・6 和歌御祭礼図屏風(海善寺蔵)


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寛文5年(1666)家康50回忌の和歌祭を描く。



4. 和歌祭の舞楽装束 (執筆 学芸員 安永拓世)

 和歌祭の当日、古くは、神輿渡御の行列がはじまる前に早朝から神事がおこなわれ、その後、神前で田楽や舞楽が奉納されていました。宮廷や寺社の式楽として儀式や法会を荘厳する舞楽ですが、和歌祭における舞楽も、重要な行事の一つであったと言えるでしょう。紀州東照宮には、この舞楽で用いられた装束がいくつか残されています。では、これらの装束はいつごろ作られたものなのでしょうか。

 祭礼で使用された舞楽装束が今に伝わっている例としては、慶長4年(1599)に豊臣秀頼が奉納した大阪・四天王寺のものや、寛永13年(1673)の徳川家康二一回忌の際に日光東照宮の祭礼で使われた栃木・輪王寺のものが有名です(いずれも国の重要文化財)。紀州東照宮の舞楽装束をこれらと比べてみると、輪王寺のものよりも、むしろ四天王寺のものによく似ていることが分かります。すなわち、和歌祭に影響を与えたとされる日光東照宮の祭礼で用いられた輪王寺の装束よりも、早い時期に作られたとみられるのです。

 そもそも和歌祭が成立した当初、舞楽はおこなわれていませんでした。名古屋東照宮の祭礼について記した史料によると、和歌祭の中に舞楽が登場するようになったのは、名古屋東照宮と同じ寛永7年(1667)のことで、その際、舞楽を演奏する楽人は京都から招かれたようです。一方、日光東照宮の祭礼で、初めて舞楽が奉納されたのは、和歌山や名古屋に遅れること6年、実は、寛永13年(1673)の家康二一回忌のときのことでした。これらのことを考え合わせると、和歌祭の舞楽装束が、輪王寺のものよりも古い様式を残している意味も分かってくるのではないでしょうか。つまり、現存する紀州東照宮の舞楽装束の多くは、寛永7年(1667)以前に京都で作られ、京都から招かれた楽人によって和歌山にもたらされたと考えられるのです。その意味では、和歌祭に舞楽が登場した当初から伝来する、貴重な資料としても位置づけることができるでしょう。和歌祭の当初の姿が、このような資料を通して、今、少しずつ明らかになって来ています。
 

 写真7 和歌祭礼舞楽装束のうち 常装束 半臂 (紀州東照宮蔵)