1. 近代の和歌祭 (執筆 主査学芸員 前田正明)
今年も5月14日(日)に、和歌山市の和歌浦周辺では、江戸幕府を開いた徳川家康を祭る紀州東照宮の祭礼・和歌祭が行われます。県立博物館では29日(日)から、江戸時代に行われた和歌祭を紹介する、特別展「和歌祭 ―祭を支えた人々、祭に込めた思い―」を開催します。そこで、今回は徳川氏の支配が終わった明治以降、和歌祭がどのように受け継がれていったのか、近代の和歌祭の歴史を紹介します。というのも、江戸時代に行われた東照宮の祭礼が、今日まで続いているのは日光東照宮と紀州東照宮ぐらいで、意外と少ないようです。
近代に入ると、明治政府は神仏分離の政策をとりました。紀州東照宮でも別当寺である雲蓋院や子院は廃寺に追い込まれたり、社領千石余が没収されたりして、経済的基盤が失われます。和歌祭も一時中断を余儀なくされますが、明治7年(1874)には有志によって再興されたといわれています。その後、明治18年(1885)に徳盛社、明治32年(1899)に明光会といった後援会が設立され、後援会の後押しによって、和歌祭は継続されました。その背景には、旧藩士の働きかけや地元和歌浦の人々の努力も大きかったようです。
古くから景勝地として有名であった和歌浦は、明治の終わりごろ、改めて観光地として注目されました。大正9年(1920)に行われた藩祖御入国三百年祭では、和歌浦の観光開発に関心を寄せていた京阪電車と南海電車からの寄附があったようです。 さらに、昭和9年(1934)に行われた和歌山城築城350年祭では、初めて和歌山城周辺で渡御行列が行われています。やがて、戦時体制が強まるようになり、昭和12年を最後に和歌祭は中断されることになりました。
昭和23年(1948)に和歌祭が復活されると、渡御行列は商工祭の一環として行われます。そして、平成14年(2002)から商工祭から独立して、和歌祭は地元和歌浦で行われるようになりました。
|