展示のみどころ


 

安楽寺多宝小塔 南北朝時代(14世紀) 安楽寺 

 南北朝時代(14世紀)に建立された高さ2m9pの小さな塔で、屋外の多宝塔を極力正確に縮小して造られ、多宝小塔として日本で唯一、単独で「建造物」として国の重要文化財に指定されています。
 修理前には下層の扉は正面のみに設けられ、ほかは全て白い板壁で覆われていましたが、平成27年(2015)から行われた修理時の調査で、もともと扉は四方全てにあり、また扉の左右に連子窓が取り付けられていたことが判明したことから、建立当初の姿に復元されました。
 阿弖川荘
(あてがわのしょう)が鎌倉時代末期に高野山領となったのち、荘園支配の拠点に建立、安置された、高野山権力を象徴する宗教的シンボルであったと推測されます。寺外初公開。

 

大日如来坐像 平安時代(11世紀) 安楽寺

 安楽寺多宝小塔の一重内部に安置される塔の本尊像です。総高24.8p。腹前で定印を結び蓮台上に結跏趺坐(けっかふざ)する胎蔵(界)曼荼羅主尊の大日如来像で、蓮台を含む像全体を檜の一木から彫り出しています。
 穏やかな表現ながら、頬の張りが充実し、両脚部の衣紋も深く、11世紀ごろの造像と想定されます。元は大日如来を頂部に配した大日光背の付属品であったとみられ、塔の造立の際に本尊として転用されたものでしょう。
 高野山壇上伽藍の大塔本尊が胎蔵界大日如来であり、そうした宗教的シンボルを寺領荘園内に移植する意図があったと考えられます。

 

観音菩薩立像 平安時代(12世紀) 安楽寺

 頭上に髻を結い上げ、条帛、裙、天衣をまとい、腰をやや捻って蓮台上に立つ菩薩像です。左手は水瓶をとる形として、右手は垂下し、明確な標識はないものの、観音菩薩として伝来しています。
 穏やかで優美な平安時代後期の作風を示す観音像で、頭体を通して正中で左右二材矧ぎとしています。同寺の阿弥陀如来坐像も同様の構造を示し、一連の造像と判断されます。台座は蓮肉部、迎蓮、上框、下框(隅足付き)からなり、下框部上面には宝相華文が精緻に刻まれ、当初のものが残されています。
 平安時代、阿弖川荘
(あてがわのしょう)が京都・寂楽寺の荘園だったころに都で造られ、当地にもたらされたものとみられます。初公開。


二天立像 平安時代(11世紀) 下湯川観音堂  *左・その一像、右・その二像

 かつての阿弖川荘(あてがわのしょう)の最深部、日光山麓を流れる湯川川流域に残る最古の仏像です。その一像は兜をかぶって着甲し、右手を掲げ(持物亡失)、左手に戟(亡失)をとる形とし、腰を捻って邪鬼の上に立っています。
 その二像は髻、冠をあらわし、着甲して両手に持物(亡失)を執り、両足首より下を失うが、邪鬼が付属しています。
 ともに怒りの表情はやや穏和ですが、肉身には充実した量感を残しつつ軽快さもあり、鎧の細部形式にも省略が少なく、およそ11世紀初めごろの造像と判断されます。初公開。

大威徳王菩薩立像 平安時代(12世紀) 法福寺 和歌山県指定文化財

 法福寺に伝わる、平安時代後期に造像された阿弥陀如来及び二十五菩薩像は、阿弥陀聖衆来迎のようすを彫像で表した希有な群像ですが、本像はそのうちの1体です。
 頭と上半身を傾け、左手は垂下し、右手は肘を張って肩の高さに掲げて持物をとるかたちとし、左足を踏み上げた躍動的な姿勢を、破綻なくあらわしています。現在の雲座は江戸時代に補われたものに替わっていますが、もとの雲座が他像に転用されて残されていることも貴重です。日本における平安時代後期の舞踊菩薩像を代表する作例の一つといえます。


熊野観心十界曼荼羅 江戸時代(17〜18世紀) 牛蓮寺

 老いの坂と十界(四聖・六道)を一幅に描いた熊野観心十界曼荼羅で、画中最上部に「心」字を配し、その下の仏界図を十一面観音とし、また施餓鬼供養の場面を描かないことなど、定型表現と異なる特殊な図像の一幅です。釈迦の涅槃の情景を描いた仏涅槃図、そして阿弥陀如来と二十五菩薩の聖衆来迎を描いた阿弥陀聖衆来迎図と三幅でセットとなって伝わり、毎年の盆行事の際に牛蓮寺本堂に掛けられて用いられています。初公開。


牛玉宝印版木 天正9年(1581) 薬王寺

 日光社の麓、上湯川地区の村堂である薬王寺に伝わった中世在銘の牛玉宝印版木の新資料で、厚みが大きく保存状態も良好で、宝珠版木も残存していることも含め、制作時期の判明する貴重な中世在銘牛玉宝印版木の新出資料です。牛玉宝印の版面に「薬王寺牛玉宝印」とあり、裏面に刻銘で「天正九年/カノトノ/ミノトシ/十二月吉日」と記されています。湯川川流域では下湯川観音堂にも天正8年銘のある牛玉宝印・宝珠版木が残存しています。ともに初公開。


僧形坐像 室町時代 下湯川観音堂

 合掌し蓮台上で趺坐する僧形像で、像全体を一木より彫り出し、蓮台も蓮弁を含めて一材製として、表面は白土下地を施して彩色仕上げとしています。
 頭部を中心に虫損が進んでいますが、迫真的な風貌や緊張感ある体躯など中世的な様相を示し、室町時代前期ごろの造像とみられます。
 蓮台に乗る合掌僧形像は来迎会(迎講)で用いる往生者像に類例があり、本像はその中世に遡る貴重な新資料です。観音堂には近世まで如来面・仏面が伝わり、かつて仏の舞が行われていたといい、菩薩面の髻部品も残っています。
初公開。