展示品の目玉の一つが、初公開された壱岐家文書です。実は、壱岐家に関する問い合わせが博物館にあり、それが発端となって、壱岐家文書が見つかりました。
系譜によると、壱岐家はもと大和国出身で、小早川秀秋や加賀の前田家に仕えたのち、寛永5年(1628)に紀伊藩に召し抱えられた、とされています。今回は、壱岐(伊木・伊岐)家が領主である小早川秀秋から与えられた知行目録などを展示しています。①の小早川秀詮知行方目録(個人蔵、出陳番号31)は、壱岐遠江守が支城である常山城を与えられた時のものです。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院の兄木下家定の子で、当初は秀吉の後継者と目されていました。しかし、秀頼が生まれたことでその道は断たれ、小早川隆景の養嗣子となりました。文禄4年(1595)隆景の隠居と同時に九州に下向し、筑前国を中心とした地域を支配しました。慶長2年(1597)の第二次朝鮮侵略(慶長の役)では総大将として出兵し、慶長5年の関ヶ原の合戦では、徳川家康に味方して勝利を導いた功績によって、備前・美作50万石が与えられています。その2年後の慶長7年10月に、若くして亡くなり、跡継ぎがなかったため、小早川家は断絶してしまいました。
秀秋は、九州下向から死去するまでのわずか7年間に、「秀俊」(②) →「秀秋」(③) →「秀詮」(④)と改名し、花押や印章にも変化がみられます。こうした変化は、秀秋が秀吉(統一政権)の強い影響下にあった状況から、それを脱して秀秋独自の領国支配を行うようになった状況を示すものといわれていますが、具体的にはあまりよくわかっていません。
こうしたなかで、今回壱岐家文書が確認された意味は非常に大きいものがあります。これまでの小早川秀秋の発給文書に関する研究は、後世の編さん物に記された写しによるところが大きく、写しでは花押や印章を確認することができません。断絶後、家臣が他の大名家に分散してしまったことも、発給文書の確認を難しくした要因の一つでした。
近代に入ると、多くの武士たちは苦難の道を歩んでいきます。こうしたなかで400年以上も守り続けてこられた、壱岐家のご子孫の方々には、頭が下がる思いがします。
和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明
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