1. 徳川家康と頼宣の家臣団

 紀伊藩初代藩主・徳川頼宣は、慶長8年(1603)、2歳で水戸城主となり、同14年(1609)、8歳で駿府城主となりました。この間、父・家康から、家臣が分与されています。家康から付けられた家臣(「御付」衆)は、頼宣の家臣団の中核をなし、なかでものちに付家老と呼ばれる安藤・水野・三浦・久野の4家は、石高・格式で群を抜いていました。一方、元和2年(1616)に家康が死去した際にも、義直(尾張)、頼宣、頼房(水戸)の3人には、財産分与とともに、家臣の「人分け」が行われました。元和5年(1619)頼宣は、紀伊藩主となりますが、その後も家臣団を増強する必要から、新たな家臣を召し抱えています。この時期、幕府による大名統制によって、取りつぶしや改易された大名もあり、浪人となった武士のなかから、新しく紀伊藩に召し抱えられる者もいたようです。

 こうした家臣のなかから、今回は付家老の三浦家と大番頭を勤めた芦川家に伝来した資料を紹介します。
 ①徳川秀忠御内書(個人蔵、出陳番号5)は、年始の祝儀として、三浦為春が秀忠に小袖や浜名納豆を献上したことに対して出された返礼書です。発給時期としては慶長16年(1611)から元和2年(1616)までが想定されます。為春は頼宣の家臣(秀忠からみれば陪臣)となっているにもかかわらず、直臣と同格に扱われている点が注目されます。一方、②徳川秀忠領知宛行状(和歌山県立博物館蔵、出陳番号6)は、旗本である美濃部新七郎に対して、近江国3か村300石を与える旨を記した領知宛行状です。寛永2年(1625)には「寛永の朱印改め」が行われています。印章(忠孝)から発給者は大御所の秀忠とわかります。元和9年(1623)に秀忠は将軍職を家光に譲っていますが、依然として領知宛行状の発給権は秀忠が握っていたことがわかります。

 いずれも、2代将軍となった秀忠から出されたものですが、これらの文書からは当時の政治的状況の一端をかいまみることができます。

和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明



①三浦家文書のうち 徳川秀忠御内書



②芦川家文書のうち 徳川秀忠領知宛行状


2. 初公開 紀伊藩士壱岐家文書


 展示品の目玉の一つが、初公開された壱岐家文書です。実は、壱岐家に関する問い合わせが博物館にあり、それが発端となって、壱岐家文書が見つかりました。

 系譜によると、壱岐家はもと大和国出身で、小早川秀秋や加賀の前田家に仕えたのち、寛永5年(1628)に紀伊藩に召し抱えられた、とされています。今回は、壱岐(伊木・伊岐)家が領主である小早川秀秋から与えられた知行目録などを展示しています。①の小早川秀詮知行方目録(個人蔵、出陳番号31)壱岐遠江守が支城である常山城を与えられた時のものです。

 小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院の兄木下家定の子で、当初は秀吉の後継者と目されていました。しかし、秀頼が生まれたことでその道は断たれ、小早川隆景の養嗣子となりました。文禄4年(1595)隆景の隠居と同時に九州に下向し、筑前国を中心とした地域を支配しました。慶長2年(1597)の第二次朝鮮侵略(慶長の役)では総大将として出兵し、慶長5年の関ヶ原の合戦では、徳川家康に味方して勝利を導いた功績によって、備前・美作50万石が与えられています。その2年後の慶長7年10月に、若くして亡くなり、跡継ぎがなかったため、小早川家は断絶してしまいました。

 秀秋は、九州下向から死去するまでのわずか7年間に、「秀俊」() →「秀秋」() →「秀詮」()と改名し、花押や印章にも変化がみられます。こうした変化は、秀秋が秀吉(統一政権)の強い影響下にあった状況から、それを脱して秀秋独自の領国支配を行うようになった状況を示すものといわれていますが、具体的にはあまりよくわかっていません。

 こうしたなかで、今回壱岐家文書が確認された意味は非常に大きいものがあります。これまでの小早川秀秋の発給文書に関する研究は、後世の編さん物に記された写しによるところが大きく、写しでは花押や印章を確認することができません。断絶後、家臣が他の大名家に分散してしまったことも、発給文書の確認を難しくした要因の一つでした。

 近代に入ると、多くの武士たちは苦難の道を歩んでいきます。こうしたなかで400年以上も守り続けてこられた、壱岐家のご子孫の方々には、頭が下がる思いがします。

和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明



小早川秀詮知行方目録



小早川秀俊知行宛行状
  (
慶長24月朔日付)<部分>


小早川秀秋知行方目録
  (
慶長6年霜月晦日付)<部分>

 

④小早川秀詮知行方目録
  (
慶長793日付)<部分>


3. 文書(もんじょ)をみる

 徳川家康領知朱印状(芦川家文書、和歌山県立博物館蔵)は、竪紙の形態で、本紙を八つ折にしています。料紙は楮(こうぞ)を原料とする檀紙で、横線のようなシワが入っているのが特徴です。檀紙は最も上質の紙で、この朱印状に使われているのは、檀紙のなかでも最もサイズの大きい「大高(おおだか)檀紙」です。大高檀紙は所領支配の権利を認めるような文書に使われました。権力者(家康)が、文書を与えた者に自らの力を目で見える形で示そうとしたためで、大高檀紙の使用はまさに権力の象徴を意味するものでした。

 領主(差出人)が家臣(受取人)に宛てる文書では、紙の大きさや紙質のほか、文字の書体や書止めの文言、署判(花押や印章)の位置などによっても、両者の関係が表現されました。ここでは、殿文字に注目してみましょう。宛名に用いる「とのへ」と「殿へ」とでは、「殿へ」の方が厚礼、「とのへ」の方が薄礼とされています。また、同じ「殿」でも楷書は厚礼で、草書は薄礼とされています。例えば、前述した朱印状をみると、家康(差出人)は蘆川甚五兵衛(受取人)に対して、「とのへ」を使用しています。また、字の大きさも極端に小さく、下げられた位置に書かれているのがわかります。

 一方、前々回に紹介した徳川秀忠御内書(三浦家文書、個人蔵)も大高檀紙が用いられていますが、朱印状の場合とは異なり、上下二つ折りにする折紙の形態をとっています。秀忠の御内書には花押を据えたものと、黒印を捺したものがあり、前者の方が早い時期のものではないかとされています。この御内書には、黒印が捺され、「殿へ」と草書で記されています。

 ところで、文書に使用される料紙には檀紙のほか、雁皮(がんぴ)を原料とする斐紙(ひし)もありました。色がにわとりの茶色っぽい卵に似ていることから、「鳥の子」ととも呼ばれています。雁皮は栽培が難しかったため、あまり生産されなかったようです。漉(す)き上がりの紙の表面が平滑で、きめ細かく、全体として優美な印象を与えるのが特徴です。徳川頼宣願書(紀州東照宮蔵)は、斐紙が使われています。

和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明



①芦川家文書のうち 徳川家康領知朱印状


②徳川家康領知朱印状
<部分>


③三浦家文書のうち
徳川秀忠御内書
<部分>


④徳川頼宣願書


4.由比家と10代藩主治宝


 展示品のなかで、もう一つの目玉が今回新たに見つかった由比家資料です。由比家はもともと徳川家康の家臣で、慶長13年(1608家康から常陸国に300石の知行が与えられ、のち頼宣の家臣に付けられました。元和5年(1619)頼宣の紀伊入国に同行し、紀伊藩士となりました。

 系譜(個人蔵、出陳番号53)によると、由比家は遠江国(とおとうみのくに)出身で、元祖である安儀は鶴見因幡守元清の子孫であるとされています。駿河国の多々羅城主であった鶴見家は、徳川家康に忠誠を誓った家とされ、由比家はこの鶴見家の系譜を引く家であることを強調することで、家格の高さを示そうとしたようです。

 由比家資料のなかには、こうした系譜(由緒書)や知行目録のほか、藩主(特に治宝)との関わりを示すものが残されています。

 徳川治宝は、寛政元年(1789)、9代藩主治貞の死去に伴い、19歳で10代藩主となりました。治宝が藩主となったころの藩財政は非常に厳しく、藩財政の立て直しのため、年貢増徴や諸産物の専売制を実施するなどの藩政改革を行いました。治宝は、中・下級家臣を抜擢し、従来家老らの門閥派を中心とした藩政の流れを変えようしたようです。由比家7代の利雄も、文政13年(1830)治宝の小納戸役(身のまわりの世話をする)を命じられています。その一方で、文雅を楽しむ政策も行いました。これが逆に財政難を引き起こす要因となったともいわれています。

 文政6年(1823)、治宝はこぶち騒動の責任をとって、藩主の座を婿養子である斉順(なりゆき)に譲っています。しかし、隠居後も、文政10年(1827)に完成した西浜御殿に逗留し、側用人となった重臣たちは、治宝のいる西浜御殿に参集しました。こうして嘉永5年(1852)12月7日に83歳でこの世を去るまで、治宝は隠然たる勢力をふるいました。

 治宝の御側に仕えた由比家には、治貞所用とされる葵紋平棗(出陳番号60)、治宝からの下賜品である書「眉寿」(出陳番号58)のほか、分野星図(出陳番号61)や大清万年一統地理図(出陳番号62、いずれも個人蔵)なども残されています。次回は、書「眉寿」(徳川治宝筆)を詳しく紹介します。

和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明



①徳川治宝書状<部分>

葵紋平棗


 

③大清万年一統地理図


5. 初公開 書「眉寿」 徳川治宝筆

  治宝による隷書の書幅(個人蔵、出陳番号58)で、表装の一文字には葵紋が織り出されています。「眉寿」とは眉が長く白くなるほどの長寿という意味で、転じて長寿を祝う言葉を意味するようになりました。こうした吉祥を意味する書幅や西浜御殿で焼かれた御庭焼などは、他大名への贈答品や家臣への下賜品としての役割を果たしました。

 今回の展示では、「眉寿」と記した書幅が、由比家のほか、御三卿の一つである田安家の伝来品にもある(県立博物館蔵、出陳番号57)ことや、家臣である渥美家の系譜(県立文書館蔵、出陳番号59)には、天保4年(1833)に舜恭院(治宝)から拝領したという記述があることを紹介しています。

 このうち、由比家に残る書幅は、治宝から7代・利雄に下賜されたことが、次の文書からわかります。

  一位様御筆     一幅
    眉寿
    御関防王維詩 桃華源裏人家
    御落款       賜深紫 楽只
  右於西浜御殿、御側渥美源五郎・上野勘解由を以拝領之
           弘化四年未卯月十二日
        風帯一文字金襴 御紋裂 長屋内記を以拝領之
      大崎白石 御紋御巻軸 鳥居源之丞を以拝領之
            同年同月十九日                  
    右由比與五右衛門利雄兄応需而記之
                               鳥居源之丞興範(印)
   一同年六月五日御表具出来、於御小座敷奉入御覧候処、綺麗出来候与之御意被成下候付、御紋裂・御巻軸をも
   拝領仕、永々子孫ニ相伝寄珎仕候段、無極家之面目難有仕合之旨御礼申上候事
   一右御筆拝領之儀者、格別之思召を以、此度被下置候御事候間、子々孫々末代ニ至候共、前段之趣相畏万代不
   易能々大切ニ取扱可申候事
             (弘化四年)未六月 
                                                                                                                                                         由比与五右衛門
                                                                                                                                                                 利雄(花押)

 由比家では、弘化4年(1847)4月12日に治宝の側近から、「眉寿」と記された書を拝領し、これとは別に表装用の裂や巻軸も拝領し、軸物に仕立てて、治宝に披露したことがわかります。

 治宝からの拝領品と伝えられる資料はいくつか残されていますが、伝来の確かさを物語る付属文書も残されている点で、この資料は貴重なものといえるでしょう。

和歌山県立博物館主査学芸員 前田正明


①書「眉寿」 

③書「眉寿」 由比家資料


 

②渥美家系譜(部分)


 

 

 

 

 

④書「眉寿」 由比家資料 
巻軸の部分