壱岐家文書のうち 小早川秀詮知行方目録 一幅
紙本墨書 縦30.1 横46.0 慶長7年(1602) 個人蔵
7月17日付。「秀詮」の署名とかすかな印章が確認できる。この目録から、領国内の備前国児島郡にあった支城常山城が伊岐遠江守に預けられ、その周辺の村々4800石余が知行地として与えられたことがわかる。これらの知行地は遠江守が常山城の城代を勤めることで与えられた城付領であった。慶長6年末に家中紛争で、筆頭的年寄であった杉原・稲葉氏が失脚しており、代わって壱岐氏らが実質的な領国支配を行うようになった。このころ、「秀秋」から「秀詮」に改名された。