第3回 芦雪 師匠の代わりに
京都の画家である円山応挙(まるやま・おうきょ、1733〜95)は、若い頃、親交のあった棠陰(とういん)と愚海(ぐかい)という二人の僧に「将来あなたたちが一寺を建立することがあれば、私がその障壁画を描きましょう」と約束をしました。月日は流れ、棠陰は白浜の草堂寺、愚海は串本の無量寺の住職になり、ともに荒廃していた寺院を再建します。天明6年(1786)、ついに無量寺の愚海が京都へ応挙を迎えに行きましたが、当時、応挙は京都で最も有名な画家となっており、多忙をきわめていました。そこで、応挙はかつての約束を守るため、自らの代理として高弟の長沢芦雪(ながさわ・ろせつ、1754〜99)を遣わしたのです。
紀州を訪れた芦雪は、師の応挙が描いた障壁画をもたらすとともに、自らもその襖へ向かい、絵筆をふるいました。約五ヶ月の紀州滞在中に、彼は草堂寺と無量寺のほか、古座の成就寺や田辺の高山寺も訪れて多くの作品を描いています。
図版1に挙げた「松月図襖」は、応挙が金地に松と月を描いた作品で、草堂寺本堂の天袋の襖です。右端の落款から天明5年(1785)10月に制作されたことが分かります。天明7年(1787)の1月ごろ草堂寺に滞在した芦雪によって、もたらされたものでしょう。

図版1 重要文化財 松月図襖 円山応挙筆 (草堂寺蔵)
一方、図版2の「寒山拾得図」は、芦雪が紀南で最後に滞在した田辺の高山寺で描かれた作品です。寒山拾得とは中国の唐時代に天台山国清寺で寺の雑務をしていた寒山と拾得という二人のことで、粗放な身なりをしていましたが、純粋な生き方が禅宗や文人の世界で好まれ、しばしば絵画の題材になりました。一般に寒山は巻物、拾得は箒を持った姿で描かれますが、この絵では、説明的な持物は省略され、どちらが寒山かよく分かりません。むしろ、この絵の魅力は大胆なクローズアップにあると言えるでしょう。画面中央の下方に畳の上で描いた跡があらわれているため、宴席などで即興的に描かれた「席画」であった可能性も考えられます。
 図版2 和歌山県指定文化財 寒山拾得図 長沢芦雪筆 (高山寺蔵)
芦雪は師である応挙のもとを離れた紀州の旅を通して、絵画表現の幅を大きく広げました。まさに、紀南の大自然が、芦雪の自由奔放な画風の原点になったのかも知れません。
(当館学芸員 安永拓世)
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