徳川家康(とくがわいえやす)の肖像画(しょうぞうが)

(展示番号5)  紀州東照宮蔵 

 1600年の関ヶ原(せきがはら)の戦いに勝利した徳川家康(1542〜1616)は、1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸(東京)に幕府を開きました。この絵の左上には、家康がなくなった日(「元和二年四月十七日」)が書かれています。反対の右上には、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」と書かれています。家康は亡くなった翌年に、朝廷(ちょうてい)から「東照大権現」という神としての名前が与えられました。この絵は、神となった家康を描いたもので、紀州東照宮(とうしょうぐう)に残されています。紀伊藩初代藩主(きいはんしょだいはんしゅ)となった頼宣(よりのぶ)は、父である家康をまつるため、和歌浦に東照宮を建てました。



                  (浜で鯨を解体している様子:部分)

 熊野(くまの)の沿岸(えんがん)
      捕鯨
(ほげい)を行う様子を描いた屏風(びょうぶ)

(展示番号19)  和歌山県立博物館蔵 

 熊野の沿岸では、三輪崎(みわさき)組(新宮市)、太地(たいじ)組(太地町)、古座(こざ)組(串本町)という3つの捕鯨集団があって、それぞれに、縄張(なわば)りが決まっていました。この屏風は、太地組の人たちが行う捕鯨の様子を中心に描いています。鯨(くじら)の種類によって、捕獲(ほかく)の方法もちがっていました。もりで突(つ)いてこ鯨を捕(と)らえるのが、突取法(つきとりほう)と呼ばれる方法です。網でざとう鯨の動きをせばめて、もりで突いて捕らえるのが、網取法(あみとりほう)と呼ばれる方法です。また、浜では鯨が解体(かいたい)されました。



                             (絵巻の最初:部分)

和歌山城下町で活躍(かつやく)した商人を描いた絵巻(えまき)

(展示番号29)  和歌山県立図書館蔵 

日用品や季節ごとの品物を、肩にかついだ棒(ぼう)にさげて、売り歩く商人が描かれています。彼らは、「ふりうり」と呼ばれました。店を構(かま)える必要もなく、簡単に商売ができたことから、城下ではよくみかけられました。この絵巻には、和歌山特産(とくさん)の金山寺味噌(きんざんじみそ)や和歌浦の海苔(のり)、加太(かだ)のわかめなど291種類の品物を売る商人が登場します。なかには、「たばこ、いりませんかな」といった売り声も書かれています。180年ほど前の活気(かっき)に満(み)ちた和歌山城下町の様子がわかります。



                     (藩主の斉順が乗っているかご:部分)

11代藩主徳川斉順(なりゆき)
   参勤
(さんきん)交代の行列を描いた絵巻(えまき)

(展示番号24)  和歌山県立博物館蔵 

 この絵巻には、藩主である徳川斉順とその家来たちが、江戸(東京)から帰ってきて、現在の和歌山市の本町通りを行列している様子が描かれています。斉順は11代将軍家斉(いえなり)の子どもで、10代藩主治宝(はるとみ)の娘である豊姫(とよひめ)と結婚して、11代目の藩主となりました。このころ、紀伊藩(きいはん)の行列は3000人ほどにもなったそうです。この絵巻には1000人ほどしか書かれていませんので、かなり省略(しょうりゃく)されているようです。この絵を描いたのは、85歳になる秋香軒(しゅうこうけん)という老人でした。