作品のおはなし


 

 徳川家康(とくがわいえやす)の姿(すがた)を描いた絵

 1600年の関ヶ原(せきがはら)の戦いに勝利した
徳川家康(1542〜1616)は、
1603年に征夷大将軍
(せいいたいしょうぐん)となり、
江戸(東京)に江戸幕府を開きました。
この絵の左上には、家康が亡
(な)くなった日
(「元和二年四月十七日」)が書かれています。
反対の右上には、「東照大権現
(とうしょうだいごんげん)」と
書かれています。
家康は亡くなった翌年に、朝廷
(ちょうてい)から「東照大権現」という
神様の称号
(しょうごうをもらいました。
この絵は、神様となった家康を描いたものです。
この絵が残されているのは、紀州東照宮
(きしゅうとうしょうぐう)です。
紀伊藩
(きいはん)の最初の藩主(はんしゅ)となった頼宣(よりのぶ)は、
父の家康をまつるため、
和歌浦
(わかうらに紀州東照宮を建てました

徳川家康像とくがわいえやすぞう :展示番号1
(江戸時代(17世紀) 紀州東照宮蔵) 


熊野(くまの)の沿岸(えんがん)で捕鯨(ほげい)をおこなう様子を描いた屏風(びょうぶ)

 熊野の沿岸では、三輪崎組(みわさきぐみ)(新宮市)、太地組(たいじぐみ)(太地町)、
古座組
(こざぐみ)(串本町)という
3つの捕鯨集団があって、それぞれに、縄張
(なわば)りが決まっていました。
この屏風は、太地組の人たちがおこなう捕鯨の様子を中心に描いたものです。
(くじら)を船で追う様子、浜で鯨を解体(かいたい)している様子などが描かれています。
また、小さな島や岩まで細
(こま)かく描いています。
鯨の種類
(しゅるい)によって、捕獲(ほかく)のしかたも違ったようです
                                         (写真は部分
)

紀州熊野浦捕鯨図屏風きしゅうくまのうらほげいずびょうぶ:展示番号16
(江戸時代後期 和歌山県立博物館蔵) 


 

 華岡青洲(はなおかせいしゅう)の姿を描いた絵

  華岡青洲(1760〜1835)は、江戸時代後期に
紀伊国
(きいのくに)西野山村(にしのやまむら)(現在の和歌山県紀の川市)
出身の蘭学
(らんがく)を学んだ医者です。
診療
(しんりょう)をしながら麻酔薬(ますいやく)の研究(けんきゅう)
おこない、マンダラゲという植物から麻酔薬を作りました。
麻酔の効果は、母や妻に実験
(じっけん)して試(ため)したようです。
そして、1804年、全身麻酔をして乳
(にゅう)ガンを取り除く
外科手術
(げかしゅじゅつ)を、世界ではじめて成功させました。
その業績
(ぎょうせき)は全国に知られ、紀伊藩の医者にもなりました

華岡青洲像はなおかせいしゅうぞう:展示番号25
(江戸時代後期 和歌山県立博物館蔵 


 徳川斉順(とくがわなりゆき)の参勤交代(さんきんこうたい)の行列を描いた巻物(まきもの)

 この絵巻(えまき)には、徳川斉順とその家臣(かしん)たちが、
参勤交代で江戸(東京)から帰ってきて、
現在の本町通りを行列している様子が描かれています。
斉順は11代将軍
(しょうぐん)徳川家斉(とくがわいえなり)の子どもで、
紀伊藩の10代藩主治宝
(はるとみ)の娘である豊姫(とよひめ)と結婚して、
11代目の紀伊藩主となりました。
このころ、紀伊藩の行列は3000人にもなったそうです。
この巻物には1000人ほどしか描かれていませんので、かなり省略
(しょうりゃく)されています。
この絵を描いたのは、85歳
(さい)になる「秋香軒(しゅうこうけん)」という老人です。

 徳川斉順帰国行列図とくがわなりゆききこくぎょうれつず:展示番号28)
天保15年(1844) 和歌山県立博物館蔵)