展示のみどころ


 

1 描かれた和歌浦の風景 -伝統的な構図から実景的な構図へ-


展示番号16「厳島和歌浦図屛風」

 江戸時代に描かれる和歌浦は、天満神社を中心とした伝統的な構図から東照宮を中心とした実景的な構図に移っていきます。今回展示する厳島和歌浦図屛風のうちの和歌浦図は、中央に天満神社(てんまじんじゃ)、左側に紀三井寺(きみいでら)・布引松(ぬのびきのまつ)、右側に淡島神社(あわしまじんじゃ)・吹上浜(ふきあげのはま)が配置され、天満神社とみられる社殿の横には三重塔が描かれています。実際に三重塔があったのは天満神社ではなく、東照宮(とうしょうぐう)でした。本図に描かれた和歌浦の風景は、天満神社を中心に描く伝統的な構図と東照宮を中心に描く実景的な構図とが混在していることがわかります。

 


 

2 海岸付近を中心に描かれた風景


 展示番号22「紀伊国沿海浅深絵図」

  日本各地の海岸付近を描いた絵図(地図)といえば、19世紀初め、測量隊を率いて全国を回って作成された、伊能忠敬(いのうただたか)の全国図(伊能図)が有名です。今回展示する日高郡域の海岸沿いを描いた沿海浅深絵図(えんかいせんしんえず)(写真は部分<日高川河口付近>)は、伊能図よりも大縮尺(約6000分の1)で、伊能図にはみられない沖合いの水深が記されています。幕末になると外国船が頻繁に来るようになり、幕府は外国船警備のため、諸藩に海岸沿いを詳しく描いた絵図を作成するよう命じました。この絵図は、入山組(にゅうやまぐみ)の大庄屋を勤めた家に、測量道具である小方儀(展示番号21)とともに伝来したものです。

 


 

3 「災害の記憶」を伝える資料


 展示番号34「日高川河口絵図」

 近年、巨大地震津波の到来の危険性が叫ばれています。江戸時代に和歌山の近辺で起こった大きな地震津波としては、宝永4年(1707)の宝永地震津波、嘉永7年(1854)の安政地震津波を挙げることができます。地震や津波、洪水が起こった時、「災害の記憶」を後世に伝えるため、人々は被害の状況を記録した絵図や文書を作成しました。こうした資料から、先人たちが災害と闘った歴史を読み取ることができます。右の写真は、津波や高潮から人々や土地を守るために築造された「波除堤」(防波堤)が描かれた日高川河口絵図(展示番号34)です。このほか、展示番号20・23・25~35も「災害の記憶」を伝える資料です。