紀州東照宮の仮面 コラム   


地獄と極楽 コラム

 

 

「お盆と輪廻と因果応報」

 毎年夏の恒例行事であるお盆(盂蘭盆会)は、旧暦の7月15日(新暦の8月15 日)に先祖供養を行う行事である。家々には施餓鬼(せがき)の棚も設けられ、 先祖以外の諸霊への施しもあわせて行なわれる。日本人の日常に深く入り込んだ 宗教行事である。ところでこの行事の前提には、死者は魂となって別の世界に生 まれ変わるという宗教観がある。こういった観念を、人はなぜ作り出したのだろ うか。

 人生の終焉を迎えたのち、魂は別の世界へと生まれ変わるという考えを、輪廻 (りんね)という。
 そのあり方を一つの画面にあらわした絵画が、熊野観心十界 図である。この絵は現在全国に42幅残存していることが確認されており、江戸時 代、熊野比丘尼という女性宗教者によって各地で絵解きされたらしい。

 まず画面の上部には、老いの坂という人生を表す山が描かれる。
 山の右下の鳥 居をくぐった赤ん坊が、山を登っていくうちに大人になり、人生の頂点を迎えて 坂を下ると、老人となって終点の鳥居へと向かう。
 山の木々により春夏秋冬が表 され、人生と四季を重ねあわせている。

 死後、魂は生前の行いに応じて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道 という世界のどこかに生まれ変わる。


新宮市正覚寺の熊野観心十界図 

 絵の大半は地獄の光景と恐ろしい責め苦を 描くが、地獄以外にも、餓鬼の世界では食べ物がのどを通らず、畜生(動物)の 世界では本能のおもむくままにしか生きられず、修羅の世界では常に戦争状態で あり、天上の世界でも寿命があって必ず死を迎える。
 六道世界は、苦しみから逃 れられない迷いの世界なのである。老いの坂の下には、その迷いから抜け出した 、仏、菩薩、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の悟りの世界が描かれ、理 想の世界も示される。

 この絵は二つの教えを示している。一つは、人は同じ状態には留まらず、常に 変わりゆく存在であるということ(諸行無常)。そしてもう一つは、現世が来世 とつながっており、この世の行いが来世に影響するということ(因果応報)。
 こ の絵により地獄の恐怖を体感した人々は、自らの行いを律し、仏にすがって善を 積み、死後の安穏を得ようとする。魂の循環という観念は、因果応報という考え と組み合わされ、人々の行動を規定する宗教的な倫理規範を形成したのである。
 死後の世界を描く観心十界図は、死者を身近に感じるお盆に眺めてこそ、意味が ある。

当館学芸員 大河内 智之 

 

 

十王の裁きと地獄の恐怖

  かつて人々は、死後、魂は別の世界に生まれ変わると考え、その行き先は生前 の行いに応じて決められると考えた。新たに生まれ変わる先を決めるのが、十王 とよばれる裁判官である。
 死者は十人の王に順番に生前の罪を裁かれ、罪の多い 順に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天上の六道のどこかに転生する世界を決めら れるという。

 その裁判の日、死者の罪を軽くするため、この世に残されたものたちが行う追 善供養が初七日から三回忌までの十回の法要である。
 秦広王(初七日)、初江王 (二七日)、宋帝王(三七日)、五官王(四七日)、閻魔王(五七日)、変成王 (六七日)、泰山王(七七日)、平等王(百か日)、都市王(一周忌)、五道転 輪王(三回忌)のそれぞれの王の心証を良くして、少しでも苦しみの少ない世界 に生まれ変われるようにと願い、あわせて自らの善行を積むことにもつながった。

 生あるもののだれもが死という現象を避けることができず、そしてまた魂が循 環するという観念が信じられた以上、この世は、いつか生まれ変わるあの世への 「準備期間」でもあった。
 「悪いことをしたら地獄に落ちる」という恐怖は、人 々が自らの行いの善悪をはかるための宗教的な倫理規範を受け入れさせるシステ ムとして機能したのである。

 この「地獄の恐怖」というシステムが有効に機能するためには、地獄の恐ろし さが具体的に想像される必要がある。テレビなどない時代、十王図は、人々に地 獄の恐ろしさをつきつける映像装置としてあった。そこに展開される、恐ろしく、グロテスクな罰は、痛さや熱さなどだれもが経験のある苦しみの延長線上にあるゆ えに、現実感をもって受け入れられた。

 ところで十王の姿は、冠をかぶった中国風の服装として描かれる。地獄や十王 という思想は中国から日本にもたらされたもので、和歌山県下でも有田川町の浄 教寺に、中国・元時代の画家である陸信忠という人物の落款(サイン)を持つ十 王図が残される。
 この十王図と、王や侍者の図像が一致する中国風が顕著な十王 図が古座川町・常楽寺に残されていた。常楽寺の十王図は江戸時代に描かれたも のであるが、舶載されたリアルな「あの世」のイメージは、そのインパクトの大 きさゆえに、後世まで忠実に写し継がれていったのである。

 


図像が一致する浄教寺(右)と常楽寺(左)の十王図

当館学芸員 大河内 智之 

 

 

来迎する救済者のイメージ

 あの世のイメージは、苦しみに満ちあふれた地獄と、その対極にある苦しみの ないパラダイス(天国・極楽)をセットにしてかたち作られる。人生には苦も楽 もあるが、古今東西の宗教が果たしてきた役割の一つは、人々の苦しみをいかに 緩和させるかというところにあるだろう。

 仏教でも、人の一生にはさまざまな苦があることを説く。それは生・老・病・ 死の四苦と、愛別離苦(愛する者と死別・生別する苦)・怨憎会苦(おんぞうえ く・嫌いな人と向き合わなければならない苦)・求不得苦(ぐふとくく・欲しい ものが得られない苦)・五蘊盛苦(ごうんじょうく・さまざまな欲望に振り回さ れる苦)を含めた八苦で、これを四苦八苦という。命あるものに必ず訪れる死へ の恐怖は、苦しみの大きな要因である。

 死を迎えることへの苦しみのあり方は人それぞれであるが、死後、生前の行い に応じて魂は別の世界へと転生するという宗教観は、人々に地獄の恐ろしさを突 きつけ続ける。いかにすれば地獄行きを免れられるのか、その不安な思いもまた 苦しみとなる。

 人々を地獄の恐怖から解き放たせてくれる救済者として信仰されるのが、阿弥 陀如来である。阿弥陀如来は、助けを求めるもの全てを救済する仏であると経典 に説かれ、「南無阿弥陀仏」とその名を唱えれば西方極楽浄土に生まれ変わらせ てくれるとされる。その極楽浄土のイメージは、香気がただよい、豪華な楼閣が 建ち並ぶ、昔の人々が想像した最高のパラダイスであった。

 さて、例え名医がいても、その病院への行き方がわからなければ治療は受けら れない。同様に、阿弥陀如来の救済が我が身にも及ぶことを実感するためには、 極楽浄土へたどり着く方法を知っておく必要がある。それを示す装置が、来迎図 である。

 人が臨終を迎えた際、阿弥陀如来はその人の前に現れるという。来迎図はその イメージを、虚空から雲に乗って降り立ち、迎えにくる姿として描き出した。こ の来迎のイメージをよりリアルなものとするために、如来や菩薩の仮面を付けた 人々が実際に練り歩く来迎会(らいごうえ)も各地で行われた。

 日常の苦痛の延長上にある地獄が想像されやすいのとは異なり、極楽浄土の「 すばらしさ」を体験的に思い浮かべることは難しい。その点、あの世とこの世を つなげる来迎のイメージは、救済者の存在を身近に感じさせるものであり、救い の象徴として人々の心に安穏を与える役割を果たしたといえよう。

 


極楽浄土のイメージ(無量寿経曼荼羅・県立博物館蔵) と 来迎のイメージ(阿 弥陀三尊来迎図・長保寺蔵)

当館学芸員 大河内 智之 

 



 

紀州東照宮の仮面コラム

 

 

和歌祭と面掛行列使用の仮面

   和歌山市の西南に位置する和歌浦は、万葉集にも歌われた、風光明媚な景勝地 である。ここに徳川家康をまつった紀州東照宮がある。家康の子である徳川頼宣 (よりのぶ)が、駿河国から紀伊国に領地替えとなって入国したのち、元和6年 (1620)に東照宮を創建、翌年の春、家康の忌日である4月17日に初めての例祭 が執り行われた。この祭を、和歌祭(わかまつり)とよんでいる。

 和歌祭の大きな特徴は、神輿のあとに様々な種類の行列が連なることで、大変にぎやかな様相を示す。その行列は、たとえば雑賀踊(さいかおどり)は織田信長の紀州攻めの際にそれを防いだ雑賀孫一が、負傷した足をひきずりながら喜び踊ったという故事を元にしているなど、一つ一つに歴史的な経緯があり興味深い。他にも長刀振や山車、唐人、赤ほろ、猿引、かさ鉾等々、最盛期には約70種の出し物が神輿の後を練り歩いたことが記録により分かる。規模の大きい祭である ため近〜現代期には断絶した時期もあったものの、多くの人々の尽力により、現 在は再び恒例の祭として定着しつつある。

 この行列の一つに、面掛(めんかけ)がある。面掛は仮面をかぶった仮装行列 で、その規模には変化があるが、江戸時代においては最大79人の大行列であった 。このことから、面掛は別名「百面」とも呼ばれている。現在でも大きな声や音 をたてて子どもを驚かせるというパフォーマンスが派手で人気があるが、ただし 現状では顔自体に隈取りのようなペイントを施すという芸態の変化があって仮面 の存在感は薄くなっている。


江戸時代の面掛のようす(和歌祭面掛図・和歌山県立博物館蔵)と

現在の面掛 のようす

 

 ところで紀州東照宮には近代期までに収集された面掛用の仮面が96面残されて いる。面掛用の仮面は現在でも新調され、増加しつつあるが、鎌倉時代から現代 までのさまざまな仮面が混在していて、仮面群の成り立ちを明確にしがたい。大正〜昭和初期頃の絵はがきに写された仮面を見てみると、現在残っていないもの も確認される。また仮面のほとんどは、にぎやかな祭の性格上、落下して破損し たり、派手な色に塗り直されたりして、もともとの姿が見えにくくなってしまっ ている。

 和歌山県立博物館では、和歌山県教育委員会の文化財指定ランクアップ推進事 業の一環として、この仮面群の性格を明らかにしようと調査を行っている。仮面 が語りかける地域の歴史を、少しでも引き出していきたい。

当館学芸員 大河内 智之 

 

 

仮面がたどった歴史

 紀州東照宮の春の例祭和歌祭では、神輿のお渡りの際にさまざまな演目を行う 行列が練り歩く。そのうちの一つである面掛(めんかけ)は、仮面をつけた仮装 行列で、江戸時代の記録では38〜9人の集団である場合と、79人の集団である場合 があり、増減がある。

 現状、近代期までに製作されたと思われる仮面を96面確認しているが、和歌祭 自体が近〜現代期に長く断絶した時期があり、仮面は一度散逸したという話、使 った人が持ち帰ったという話、京都や奈良から買い集めたという話など、確認す ることの困難な「伝承」が入り交じっていて、仮面群の成り立ちの解明は一筋縄 ではない。

 仮面の調査を進める中で、いくつかのグループがあるらしいことが見えてきた 。まずはその一つ。仮面群のなかに、四角張った輪郭で面奥も深く、豪快に笑っ た古様な仮面がある。制作時期は室町時代を降らない。にぎやかな芸態の面掛行 列では仮面を落とすことがままあり、この面もある時期に落下して砕けてしまい、接着剤や粘着テープで補修されていた。面裏のテープを矧がしたところ、その 下に朱字で「方廣作」と記した銘文が現れた。実は同様の銘文を持つ仮面が、仮 面群のなかには6面含まれている。普通に読めばこれは方廣という人物が作った ということになるが、表現や技法が各面ごとに異なり、実際の制作者名ではない ようだ。しかし重要な共通項は、これらがすべて室町時代に制作された古様な仮 面であることだ。仮説ではあるが、元和7年(1621)に最初の和歌祭が行われる に際して、集められた仮面群の一つではなかったかとの想像が浮かぶ。

 もう一つのグループは、天下一友閑という焼印が押された7面の仮面である。 天下一友閑は面を制作する有力な家系、大野出目家の二代、出目満庸(でめみつやす、?〜1652)のことで、能が武家の式樂であった江戸時代、そういった名人の仮 面を入手することは簡単ではなかったはずだ。例えば紀伊徳川家八代藩主重倫が 収集した能面159面中(根来寺所蔵)、友閑の仮面は6面あるが、紀州東照宮では 近代以前の能面30面中に7面含まれていて、その比率の高さは突出している。おそらくは紀伊徳川家、あるいは紀伊藩の積極的な関与により収集がなされたので はないかと思わせる数なのである。

 今はまだ雲をつかむような状態ではあるが、これら仮面がたどってきた歴史を 明らかにすることは、和歌祭の歴史を解明することにもつながる。仮面が語りか ける歴史に耳を澄ませたい。

狂言面祖父(おおじ) と 面裏からみつかった「方廣作」の銘。

当館学芸員 大河内 智之 

 

 

コラムは、これで終了です。