展示のみどころ
Ⅰ 治宝(はるとみ)・斉順(なりゆき)と江戸藩邸 治宝が、幼少期や参勤交代で江戸に来た際に過ごした紀伊藩の江戸藩邸、治宝自身や治宝の近親者(妻の種姫(たねひめ)、娘の豊姫(とよひめ)、婿養子の11代藩主斉順)にかかわる資料を紹介します。 |
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治宝の娘である豊姫が愛用した羽子板
徳川治宝の娘で、斉順(なりゆき)の正室となった豊姫(とよひめ)(1800~45)が愛用した羽子板です。表に貴人の家族が遊ぶ様子、裏に小正月の火祭行事(厄払(やくばら)い)の一つ左義長(さぎちょう)が極彩色で描かれています。和歌山生まれであった豊姫は、5歳で江戸に下向し、正室となったこともあり、亡くなるまで江戸住まいでした。羽子板の表も裏も胡粉(ごふん)で盛り上げた上に金箔(きんぱく)を貼(は)っており、遊戯具(ゆうぎぐ)というよりも縁起物・飾り物といえます。栄恭院(えいきょういん)(実母の於佐衛(おさえ))からもらったと記された書付(かきつけ)が残っています。 |
← 羽子板(はごいた) 徳川豊姫(とくがわとよひめ)所用 1握 和歌山県立博物館蔵 江戸時代(19世紀) (展示番号9) |
Ⅱ 治宝・斉順の文芸 治宝は、藩主時代だけでなく、藩主を婿養子の斉順に譲って、隠居したのちも文雅を楽しみました。治宝や斉順の文芸活動を紹介します。 |
和歌祭(わかまつり)祭礼所用具(さいれいしょようぐ) 1領 紀州東照宮蔵 江戸時代(18~19世紀) 和歌山県指定文化財 (展示番号19)
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東照宮の祭礼で奉納された舞楽の装束
治宝は、雅楽や舞楽を愛好し、雅楽会や舞踏会を頻繁に催していました。この袍は、林歌に用いられたものとみられます。林歌は舞楽の曲目の一つで、高麗楽(こまがく)の舞に分類されるものです。単(ひとえ)仕立てで、地に雲の文様を織り出した茶地の裂(きれ)を用い、全体にさまざまな姿の鼠(ねずみ)を刺繡(ししゅう)であらわしています。林歌は、鼠と関係の深い舞とされています。文政8年(1825)9月の東照宮の祭礼で、林歌が舞われたことが、和歌祭礼行列書(展示番号18)からわかります。 |
Ⅲ 治宝と西浜御殿 治宝は、隠居後は現在の県立和歌山工業高校付近にあった西浜御殿で過ごしました。治宝や西浜御殿に集まった側近の家臣たちのもとで花開いた文化を紹介します。 |
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治宝から拝領した書
紀伊藩士である由比(ゆい)家の七代利雄が、治宝から拝領した書です。「眉寿」とは、眉が長く白くなるほどの長寿という意味で、長寿を祝う言葉になりました。付属する文書から、治宝から拝領する過程を知ることができます。それによると、西浜御殿で、側近の渥美源五郎・上野勘解由(かげゆ)を通じて、この書を拝領しました。さらに、鳥居源之丞を通じて、表装用の風帯(ふうたい)・一文字・金襴(きんらん)(裂(きれ))、巻軸(大崎白石)を拝領しました。表具ができあがり、御小座敷(おこざしき)で治宝に披露し、綺麗(きれい)な仕上がりを褒(ほ)められたようです。希望者が多い中で拝領できたことを喜び、子々孫々まで大切にすると述べています。 |
← 書(しょ)「眉寿(びじゅ)」 徳川治宝筆(とくがわはるとみひつ) 1幅 個人蔵 弘化4年(1847) (展示番号31) |
Ⅳ 治宝と伊達家 治宝側近の家臣の1人に、伊達宗広(千広)がいました。嘉永5年(1852)に治宝が亡くなると、治宝派の家臣への粛清が行われ、宗広は宗興(むねおき)(宗広の子)とともに脱藩して、京都に向かいます。伊達小二郎(宗広の子、のちの陸奥宗光)も行動をともにしました。 |
商方(しょうほう)之(の)愚案(ぐあん) 陸奥宗光筆(むつむねみつひつ) 1巻 和歌山県立図書館蔵 慶応3年(1867) (展示番号46)
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陸奥宗光が坂本龍馬に送った 商いに関する意見書
海援隊の商事担当として活動していた陸奥宗光が、隊長である才谷梅太郎(さいだにうめたろう)(坂本龍馬(さかもとりょうま))に提出した意見書です。この意見書は、三つの論からなっており、日本とは異なる西洋の商業・通商の仕組みに注目して、海援隊が商取引を拡大させていく方法を論じています。文久2年(1862)11月、伊達宗広(だてむねひろ)・宗興(むねおき)は紀伊藩を脱藩し、京に向かいます。伊達小二郞(陸奥宗光)も行動を共にしていたようで、京で坂本龍馬と出会い、海援隊に参加するようになりました。 |