熊野本宮大社と熊野古道 1 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 阪和自動車道のみなべ〜南紀田辺インターチェンジの開通で、熊野はますます近く身近なものとなるだろう。しかし、車もアスファルトの道もない平安時代、人々はどのような思いで熊野を目指し、また、熊野に着いた時にはどのような感慨を抱いたのだろうか。

 天仁2年(1109)、後に左大臣を務めることになる藤原宗忠は、熊野三山に参拝し、年来の宿願を果たした。宗忠は日頃から日記をつけており、熊野に参拝したこの時も、行路の途中で見聞したものや起こった出来事などをきわめて詳細に記していることが知られている。それによると、例えば、熊野へ向かう途中、芳養まで来た宗忠は、芳養王子社(現在の大神社)に参拝して「御幣」(短冊状に切った紙・布を木の枝に挟んだもの)と「経典」を奉納しようとしたが、「御幣」の持参を命じていた従者の到着が遅れたため、やむなく経典の数を倍に増やして奉納した、と記している。また、岩田川(富田川)をつづら折りに十九度も繰り返し渡河しながら滝尻まで至った宗忠は、滝尻王子の先で、手を垂直に立てたような急坂をよじ登り、「誠に身力が尽きた」(疲れ果てた)との感想を記している。

 宗忠は、20歳の頃から熊野に参詣したいとの希望を持っていたが、さまざまな事情でそれが叶わず、48歳のこの時、長年の宿願を遂げて熊野三山を巡拝している。本宮の証誠殿の前で宗忠は、自筆で「三種の大願」を記した願文を読み上げさせ、それを聞いているうちに「不覚にも落涙」してしまったと漏らしている。長年の夢を叶えた宗忠のこの時の思いが推し量られて余りある一文である。別のところで宗忠は、「今日幸いに参詣の大望を遂げ、証誠殿の御前に参り、落涙抑え難く、随喜感悦す」とも記している。よほどうれしかったのだろう、参拝を遂げただけで、さきの「三種の大願」はきっと成就するに違いないと、日記を締めくくっている。

 熊野に参詣するほとんどすべての人にとって、その道のりは「難行苦行」の道であり、それ自体が修行であるととらえられていた。宗忠の日記には、石上(岩神)王子付近で、熊野に向かう途中で食料の絶えてしまった盲者に出会ったことが記されている。宗忠はこの盲者に食料を与えているが、末法の世を迎えた当時の社会において、熊野を目指していたのは皇族・貴族ばかりではなかった。身分の上下を問わず、熊野の地は、そこへたどり着きさえすれば誰もが救われる、そんな浄土として人々に認識されていたに違いない。

 


中右記(宮内庁書陵部蔵)

 

熊野本宮大社と熊野古道 2 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 大坂から南下してきた熊野参詣道が和泉山脈を越え、紀の川を渡ったあたりに位置する歓喜寺は、もと薬徳寺と呼ばれ、中世以来、参詣道を往来する人々に「接待」を行う「接待所」と呼ばれる施設が置かれていたことでよく知られる寺院である。接待所は、鎌倉時代の後期、文保2年(1318)の史料を初見として、以後、室町時代まで史料上にその存在が知られる。

 ところで、歓喜寺には現在、後鳥羽上皇像と伝えられる木彫像がある。寺では、本尊の脇壇に、上皇の位牌とともに安置しており、寺に伝わる伝承では確かに後鳥羽上皇像として伝えられてきたようで、作風の特徴から、南北朝時代頃に制作されたものであることが分かる。後鳥羽上皇の活躍した時代からはやや後になって制作されたものということになるが、歓喜寺の位置する紀伊国和佐荘下村・南村は、後鳥羽上皇の寵愛を受けた大宮局の所領であり、薬徳寺の境内には後鳥羽上皇の菩提を弔う護摩堂もあったことから、この像が後鳥羽上皇像である可能性は確かにある。もし仮に、これが後鳥羽上皇像であるとすれば、木彫像としては現存する唯一の後鳥羽上皇像ということになる。

 しかし、この像、どうみても絵画作品などに描かれた後鳥羽上皇の姿とは似ていないのである。果たしてこれは本当に、後鳥羽上皇像なのだろうか。そのことを考える際に重要な手がかりとなるのが、歓喜寺(薬徳寺)に接待所が設けられていたという、この寺の歴史の中でひときわ光彩を放つ事実である。こうした接待所は、熊野参詣道に沿って、至るところに設けられていたと思われるが、なかなか歴史的な事実として、その実態が分かる史料を伴っている場合は少ない。しかし、歓喜寺(薬徳寺)の場合、その接待所経営の原資として、和佐荘に根を張る在地領主(豪族)・大伴氏が、田畠を寄進したり、人望の厚い僧侶を呼び寄せたりするなど、この接待所の経営に積極的に関わっていたことを示す確かな史料が数多く残されている。そして、そういう動きの中で、鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて、この接待所を歓喜寺(薬徳寺)の主要な事業として、大きく発展させたのが禅僧の賢心坊恵甑上人であった。

 ここへきて、歓喜寺において、後鳥羽上皇像と伝えられているこの像は、禅僧の像としての特徴を備えていること、また、制作時期がこの恵甑上人の活躍した時期に比較的近いことなどを合わせて考えると、恵甑上人像である可能性が高まってきた。ただ、後鳥羽上皇像でないとしても、決して落胆することはない。歓喜寺(薬徳寺)にとって、恵甑上人は、接待所の経営という、独特で個性的な事業を展開してこの寺の知名度を高めた傑僧に違いなく、そうした僧の像を造立することには大きな意義があったのである。

 いずれにしても、今ここで白黒をはっきりさせる必要もなかろう。この謎解きの続きは、ぜひ、県立博物館まで足を運んでみて、この像を実際に見ながら楽しんでほしい。

 


僧形倚像[伝後鳥羽上皇像](歓喜寺蔵)

 

熊野本宮大社と熊野古道 3 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 海南市の藤白神社は、かつて熊野の「一の鳥居」があり、熊野への入り口とされていたことでよく知られる神社である。一の鳥居は現在ではもうないが、その鳥居が立っていた跡地が残されており、境内を通ってさらに西へ向かうと、古道の雰囲気が今でも良好に残されている藤白坂に出る。熊野九十九王子のうち、とくに格式の高いとされた五体王子のうちのひとつである藤白王子を今に引き継ぐこの神社には、かつて熊野参詣に訪れた人々も見たであろう熊野三所権現の本地仏像3躯が祀られており、神々しいまでのその姿を今に伝えている。

 建仁元年(1201)、熊野参詣の途上にあった後鳥羽上皇は、10月9日に湯浅の宿所で開かれた歌会で、この日の朝に参拝を遂げた藤白王子に奉納する和歌を詠んでいる。写真は熊野懐紙と呼ばれるもののうちのひとつで、後鳥羽上皇がおこなった正治2年(1200)および建仁元年(1201)の2度の熊野参詣の途上で、近臣たちとともに開いた歌会で披露された和歌を、上皇が自らしたためたものである。上皇は、生涯を通じて28度の熊野参詣を行っているが、こうした歌会で詠まれた和歌の懐紙は、現在30数葉しか伝わっておらず、この2年間に集中して残っているのが大きな特徴である。とくに、建仁元年の参詣時には、当時、歌人としての名声を高めつつあった藤原定家が同行しており、熊野懐紙の集中的な残存も、この時期に前後して院御所内に設置された和歌所による秀歌の撰進事業などの動向と深くかかわるものであろう。後に上皇はこの和歌所を中心にして『新古今和歌集』の編纂を命じており、和歌の興隆にはことのほか意を注いでいたことが知られている。この時、上皇はは22歳という若さであったが、闊達でみずみずしい筆致には、参詣に向けたみなぎるような若い意欲が感じられよう。

 また後鳥羽上皇は、前述した通り、28度熊野に参詣している。この28回という回数は、祖父・後白河上皇の34回に次ぐ多さと言えるが、逆に28回にとどまったのは、承久の乱により鎌倉幕府との抗争に敗れ、上皇自身が隠岐島に流されてしまったためである。上皇は乱の起こる直前、承久3年(1221)2月にも参詣を行っている記録があり、参詣の頻度としては、平均して10ヶ月に1度という、後白河上皇(平均で1年に1度)をむしろ上回る頻度で参詣を行っている。乱がなければ、ゆうにこれを超えていたに違いない。しかし、その一方で、院政期の白河上皇に始まった熱狂的ともいえる皇族の熊野参詣は、後鳥羽上皇の後にはほとんど引き継がれなかった。参詣の再開は30年近くが経過した建長2年(1250)であり、参詣熱は急速に冷めていったと言わざるを得ない。その理由は定かではないが、皇族・貴族による参詣で大きな経済的恩恵に浴していた熊野三山では、これに代わる新たな「パトロン」を必要とする時代に入っていったのは確かである。熊野比丘尼が活躍し、先達(山伏)たちが地方武士や一般庶民を熊野へといざなう「蟻の熊野詣」の時代の幕開けである。


熊野懐紙 後鳥羽上皇筆(陽明文庫蔵)

 

熊野本宮大社と熊野古道 4 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 現在、熊野本宮大社に参拝するには、目の眩むほどの長い石段を、息を切らしながら登ってゆかなければならない。明治22年(1989)の熊野川水害によって、それまで熊野川と音無川の合流点・大斎原に鎮座していた熊野本宮大社は社殿の一部が流失するという未曾有の被害を受け、やむなく現在地に遷座(移転)したのである。そして、この水害以前の、おそらくは江戸時代中頃の境内の様子を描いているのが、写真の絵図である。この絵図を見ながら、また、さらに古い中世の参詣記なども手がかりにしながら、かつての熊野本宮の様子をうかがう旅に出てみよう。

 写真の左端に石垣で護岸を施した細い川を渡る橋がみえる。高橋と呼ばれる本宮境内の入口に架かる橋で、鳥居と惣門もみえる。ただ、中世においては河床が絵図の段階よりもっと高かったようで、音無川を歩いて渡って境内へと進んでいったようである。建仁元年(1201)、後鳥羽上皇に随従して熊野に参詣した歌人の藤原定家の日記では、これを「ぬれわらうつの入堂」と称しており、室町時代の『北野殿熊野参詣日記』では「ぬれわら沓の入たう」と記していることから、これは「濡れ藁沓の入堂」の意と解釈できる。つまり、中世においては、長旅を経て本宮に着いたとしても、旅装を改めずにまず社殿の前に馳せ参じることが重要な参詣作法であると考えられていたようである。

 こうして境内に入ると、参詣者は社殿の後方から正面へと回ることになる。左手に大きな屋根をもつ礼殿があり、中門の前には絵図では「大釜」と書かれた湯釜がある。『北野殿熊野参詣日記』にも、「上中門にて御手水ありて」とあるから、遅くとも室町時代前半には手水鉢としての湯釜が中門の前に置かれていたことが分かる。ちなみにこの湯釜は、建久9年(1198)の銘があり、現在、重要文化財に指定されている鉄湯釜であろうと想像される。

 中門から中へ入ると、そこには6棟の社殿と1棟の建物(上神楽所)が横一列に立ち並ぶ光景が目に入る。こうした光景は、社殿を取り囲む塀が中世には廻廊であったことを除くと、基本的に変わりなく、中門の正面に主祭神を祀る証誠殿(第三宮・御本社)があり、その左に速玉神・結神を祀る「両所」(第一・二宮)の社殿と上神楽所、さらに証誠殿の右には若宮の社殿が並ぶ。藤原定家の日記では、「両所」の前で「御幣二本」を捧げ、「前後両段の御拝、一社の儀の如し」と記されているから、当時からこの速玉・結の2神は相殿(1棟の建物で2神を祀ること)であったことが分かる。また、若宮のさらに右側には大きな屋根の社殿が2棟並び立っているが、これも中世以来、4柱ずつの祭神を祀る相殿だったようで、御幣を4本ずつ捧げるなどの拝礼が行われていたことが知られる。

 大斎原は、現在もこの絵図のような森厳とした木立に囲まれている。そして、洪水の後に芽を吹いたのだろうか、まるでかつての社殿が甦ったかのように、生命力溢れる大きなクスノキが四方に枝を広げて立っている。その姿をみて、かつての様子を想像してみるのもひとつの楽しみ方ではないだろうか。


熊野本宮本社末社図[部分](熊野本宮大社蔵)

 

熊野本宮大社と熊野古道 5 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 熊野本宮大社への道のりは、国道311号線の整備によって、現在でこそ多少近く感じられるようになったとはいえ、少し前までは、その国道311号線でさえ、狭く曲がりくねった道であり、熊野までの道のりは一般的にはきわめて「遠い」という印象があった。しかし、様々な交通手段が発達した現代でさえ遠いと感じる熊野に、なぜ、平安時代の人々は、多くの危険を冒してでも行こうと思ったのだろうか。その答えを見出すのは容易ではない。“蘇り”や“救済”を求めての旅という、一般的な説明もよく聞かれるし、人々を熊野へと導いた御師や先達(山伏)、熊野比丘尼らの活動とその背後にある聖護院や熊野三山の経済的な動向という側面から説明する歴史的な解釈も確かにあり得るだろう。しかしいずれにしても、十分な答えとは言い難い。

 天仁2年(1201)、およそ30年来の宿願を果たして熊野への参詣を遂げた藤原宗忠は、本宮に到着した時の感慨を、その日記『中右記』に「誠にこれ生死の険路を渉り、菩提の彼岸に至るものか」と書き記している。生死を分けるほどの険しい道のりをはるばる越えて到着したこの地が、「菩提の彼岸」すなわち、一切の煩悩から解放された、すがすがしい涅槃の境地のように感じられた、というのである。それほどここに至るまでの参詣道は遠く険しく、それを越えること自体が一種の修行であり、それを越えて本宮に辿り着くということは、生きながらにしてそうした涅槃の境地に立つことを意味していたのである。

 写真の熊野本地仏曼荼羅は、熊野で祀られる神々の本地仏(元々の姿という意味)の姿を表したもので、中央に胎蔵界曼荼羅の中台・八葉院を描き、その中央に本宮の本地仏・阿弥陀如来を、また八葉の蓮弁に新宮の本地仏・薬師如来(右)、那智の本地仏・千手観音(右)の他、熊野十二所権現の本地仏をそれぞれ描いている。阿弥陀如来は、極楽浄土の中心にいる仏であり、本宮はそうした阿弥陀如来のいる西方浄土として認識されていた。同様に新宮は薬師如来のいる東方瑠璃浄土、那智は観世音菩薩の住む補陀落浄土と認識され、末法思想を背景とした浄土信仰の広がりの中で、熊野三山全体が広義の浄土と考えられていたのである。藤原宗忠がまさにふらふらの足取りで本宮に着いた時に見た光景も、こうした仏たちが居並ぶ浄土の光景だったのかも知れない。

 この曼荼羅では、さらに十二所権現の一部は蓮弁の下へも広がり、さらにその下方には、櫟井・藤代・切目・稲葉根・滝尻・近津湯・発心門・湯峯・新羅の九王子の姿も童子形で描かれている。これらの王子は、言うまでもなく、紀伊路・中辺路と呼ばれた中世の熊野参詣道の途上に祀られた九十九王子のうちの代表的な王子と言え、この曼荼羅の図像が熊野のみならず、そこへ至る参詣道をも含み込んだ広大な世界観を表現したもののうちのひとつであることが指摘されている。熊野の世界は、単に三山だけでなく、そこへ至る参詣道をも含めたものが、まさにひとつの世界と考えられていたのであろう。

 


熊野本地仏曼荼羅図(熊野本宮大社蔵)

 

熊野本宮大社と熊野古道 6 

 

高木徳郎(当館学芸員)

 照手姫との強引な契りの恨みを買って毒殺され土葬された小栗判官が蘇り、熊野本宮にほど近い湯峯温泉で本復を遂げたという伝承は、説経節「小栗」の流布とともに全国で知られるようになった。小栗は藤沢の上人の計らいで土車に乗せられ、「この車を引く者、一引き引かば千僧供養、二引き引かば万僧供養に成るべし」と書き添えられて送り出され、途中、沿道の人が代わる代わる車を引き、小栗と知らずに車を引いたかつての妻・照手姫の手も借りながら、ようやく湯峯にたどり着くと、温泉の薬効によって完全に元の体に戻ったという。湯峯は、天仁2年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠も「この湯を浴びる人、万病消徐す」と書き記している通り、どんな病気でも治すというありがたい温泉として古くよりよく知られていた。小栗判官も、そうしたことから湯峯を目指したに違いない。

 その湯峯温泉の中心部にあるのが東光寺である。もとは薬師堂といい、湧出した温泉の成分のうち石灰や硫黄などが固着し、自然に成形されたと言われる薬師如来像を本尊とし、かつては胸のあたりに現在もあいている穴から湯(温泉)が流れ落ちていたという。江戸時代の記録などには、この本尊像のことを「湯胸薬師」と呼んでいたことが記されており、一説では、湯峯という地名も、この「湯胸」が転訛したものと言われている。そして、この本尊を覆う厨子の扉の裏側に描かれたのが、写真の日光菩薩像扉絵である。左右で一対となった扉の両方の裏側に、日輪を手にした日光菩薩像と月輪を手にした月光菩薩像とを一対で描いたもので、温泉の湯気などの影響による劣化が甚だしいが、桃山時代の作風を示すものと言われている。日光菩薩像が手にしている日輪の中には、劣化によりほとんど視認しにくいが、三本足で両羽を上にあげたヤタ烏が描かれている。なお、月光菩薩像が手にする月輪には兎が乗っている。

 東光寺とその本尊・薬師如来像の存在は、湯峯の地域社会が、熊野信仰や熊野本宮と密接不可分の関係をもちながらも、温泉から湧出した薬師如来への信仰という、熊野信仰とは必ずしも同一化し得ない、独特の信仰を育み、そこから派生した小栗判官の物語を生むなど、独自の展開を遂げていった。こうした連鎖は、熊野を訪れる多くの人々がこれを受容したことで、幅広い広がりをもって受け入れられていった。小栗判官が熊野を目指したのは紛れもなく熊野への信仰によるものに他ならないが、彼が蘇生し本復し得たのは湯峯温泉の薬効によるものである。しかし、当時の人々はこれをまったく別のものとは理解せず、むしろ両者を融合させてスケールの大きな物語へと仕上げていった。熊野という果てしなく大きな世界が育んだ想像力の豊かさに、改めて驚かされる。

 


日光菩薩像扉絵(東光寺蔵)

 

特別展のコラムは、これで終わりです。