現在、熊野本宮大社に参拝するには、目の眩むほどの長い石段を、息を切らしながら登ってゆかなければならない。明治22年(1989)の熊野川水害によって、それまで熊野川と音無川の合流点・大斎原に鎮座していた熊野本宮大社は社殿の一部が流失するという未曾有の被害を受け、やむなく現在地に遷座(移転)したのである。そして、この水害以前の、おそらくは江戸時代中頃の境内の様子を描いているのが、写真の絵図である。この絵図を見ながら、また、さらに古い中世の参詣記なども手がかりにしながら、かつての熊野本宮の様子をうかがう旅に出てみよう。
写真の左端に石垣で護岸を施した細い川を渡る橋がみえる。高橋と呼ばれる本宮境内の入口に架かる橋で、鳥居と惣門もみえる。ただ、中世においては河床が絵図の段階よりもっと高かったようで、音無川を歩いて渡って境内へと進んでいったようである。建仁元年(1201)、後鳥羽上皇に随従して熊野に参詣した歌人の藤原定家の日記では、これを「ぬれわらうつの入堂」と称しており、室町時代の『北野殿熊野参詣日記』では「ぬれわら沓の入たう」と記していることから、これは「濡れ藁沓の入堂」の意と解釈できる。つまり、中世においては、長旅を経て本宮に着いたとしても、旅装を改めずにまず社殿の前に馳せ参じることが重要な参詣作法であると考えられていたようである。
こうして境内に入ると、参詣者は社殿の後方から正面へと回ることになる。左手に大きな屋根をもつ礼殿があり、中門の前には絵図では「大釜」と書かれた湯釜がある。『北野殿熊野参詣日記』にも、「上中門にて御手水ありて」とあるから、遅くとも室町時代前半には手水鉢としての湯釜が中門の前に置かれていたことが分かる。ちなみにこの湯釜は、建久9年(1198)の銘があり、現在、重要文化財に指定されている鉄湯釜であろうと想像される。
中門から中へ入ると、そこには6棟の社殿と1棟の建物(上神楽所)が横一列に立ち並ぶ光景が目に入る。こうした光景は、社殿を取り囲む塀が中世には廻廊であったことを除くと、基本的に変わりなく、中門の正面に主祭神を祀る証誠殿(第三宮・御本社)があり、その左に速玉神・結神を祀る「両所」(第一・二宮)の社殿と上神楽所、さらに証誠殿の右には若宮の社殿が並ぶ。藤原定家の日記では、「両所」の前で「御幣二本」を捧げ、「前後両段の御拝、一社の儀の如し」と記されているから、当時からこの速玉・結の2神は相殿(1棟の建物で2神を祀ること)であったことが分かる。また、若宮のさらに右側には大きな屋根の社殿が2棟並び立っているが、これも中世以来、4柱ずつの祭神を祀る相殿だったようで、御幣を4本ずつ捧げるなどの拝礼が行われていたことが知られる。
大斎原は、現在もこの絵図のような森厳とした木立に囲まれている。そして、洪水の後に芽を吹いたのだろうか、まるでかつての社殿が甦ったかのように、生命力溢れる大きなクスノキが四方に枝を広げて立っている。その姿をみて、かつての様子を想像してみるのもひとつの楽しみ方ではないだろうか。
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