これまでの“マイミュージアムギャラリー”

展示内容
第1回展示
「南紀男山焼の手作り茶碗」
【出陳者】
向井 睦
【展示期間】
平成19年6月22日(金)〜8月3日(金)
資料をめぐる思い出
「私はもともと茶道を習っていましたが、自分で作った茶碗でお茶を飲んでみたかったので、広川町の男山焼会館で陶芸を教えていらした先生に習って作ってみました。淡い黄色のものが初めて作った茶碗。釉薬は先生にかけていただきました。
 染め付けのものは、80歳、77歳、70歳のお友達に、お祝いのため茶碗を作って差し上げた際、自分用に作りました。お友達のものには年齢も書きましたが、自分用には書きませんでした(笑)。」
学芸員の一口メモ
 南紀男山焼とは、文政10年(1827)、崎山利兵衛が藩の許可を得て、有田郡広村の広八幡神社の裏山・男山に開いた窯です。開窯初期には殖産興業の一環として藩の全面的な後押しがありましたが、安政3年(1856)には利兵衛に払い下げられ、明治11年(1878)には廃窯となりました。
 主に染付が一般向けの商品として大量に焼かれ、その流通には箕島陶器商人が深く関わっていました。その他にも、茶道具や御庭焼(藩主が焼かせた焼き物)の焼成も行っていたようです。
 広川町の男山焼会館は、平成4年に開館。男山焼の作品を展示するとともに、陶芸教室などを通じて、男山焼の伝承に努めています。

展示内容
第2回展示
「墨で光った宝箱」
【出陳者】
横浦 那美
【展示期間】
平成19年8月4日(土)〜10月19日(金)
資料をめぐる思い出
「私は幼稚園の頃から高校3年生まで書道を習っていました。この書道用具とは、ランドセル以上の長いおつきあいということになります。
 中学生・高校生になると、勉強が忙しくなり、しんどいと感じたこともありました。でも、教えて下さった先生ご夫妻にとてもよくしていただき、また頑張って書いた分だけ字も上達し、そして昇段したり賞をもらったりする喜びが、続けることにつながったと思います。
 筆を執らなくなって何年かたちますが、これを機に久しぶりに書きたくなりました。」
学芸員(の実習生)の一口メモ
 「書」、そして和歌山県と言えば、空海を連想される方が多いのではないでしょうか。高野山を開いた弘法大師空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と称せられています。空海の生涯を描いた「弘法大師行状絵詞」には、「空海が五本の筆を同時に扱った」とか、「流水に字を書いた」など、その書にまつわる話が伝えられています。
 ところで、江戸時代の寺子屋では、「読み書きそろばん」が教えられており、筆を使って字を書くことは実用の学問でした。現在は日常、筆で字を書くことはありませんが、それでも小学校や中学校では書道が教えられ、その伝統は失われていません。
 毛筆で書くときには筆・紙・硯・墨が必要ですが、この道具のことを「文房四宝」といいます。書道用具はまさに「宝箱」なのです。
ポケットブック「マイミュージアムギャラリーができるまで」(上田早紀氏構成・絵)
今回の展示は、平成19年度博物館実習生(上田早紀・仲江菜実・前小百合・横浦那美)の協力を得ています。

展示内容
第3回展示
「台湾の壺 ―祖父と私をつなぐもの― 」
【出陳者】
藤原 光子
【展示期間】
平成19年10月20日(土)〜平成20年1月18日(金)
資料をめぐる思い出
「私の祖父は、大正時代、台湾総督府で統計官として勤めていました。この壺は祖父が台湾で手に入れ大事にしていたもので、「セイバンの壺」と呼んでいたものです。
 台湾で、祖父の部下が当時大流行したスペイン風邪にかかって亡くなり、そのお葬式に参列した一週間後、祖父も同じくスペイン風邪によって亡くなりました。その後、本土への引き上げの時、大事に持ち帰ったそうです。
 実は私は祖父を見たことがありません。でも、残されたこの壺を通じて、祖父とのつながりを感じています。」
学芸員の一口メモ
  日本は、日清戦争後の明治28年(1895)から昭和20年(1945)まで、台湾を植民地として支配しました。台湾総督府は台湾の現地支配にあたった官庁です。
 「セイバンの壺」と呼ばれてきたこの壺ですが、セイバンとは「生蕃」のことで、清国統治時代の、台湾の山中や離島に住む原住民族の総称でした(ただし「蕃」は蔑称です。ここでは資料の歴史的な背景を明確にするため、この文字を使用していることをお断りします)。日本統治時代は高砂族とも呼ばれました。
 高砂族と呼ばれる原住民族は九つに分類されますが、そのうち排灣(パイワン)族では、首長が神器としての壺を持つ事例があります。その他の部族でも、水を満たした壺を神の依り代とする事例があります。あるいはそういった神事に関わる壺の可能性もありそうです。

展示内容
第4回展示
「かざりの美―母の愛した装飾品―]
【出陳者】
吉川 芙美
【展示期間】
平成20年1月19日(土)〜平成20年4月11日(金)
資料をめぐる思い出
「これらの装身具や化粧道具は、亡くなった母が愛用していたものです。母は着物が好きでお洒落な人でした。大正6年(1917)の生まれで、大正ロマンを引きついだ昭和の人、というイメージです。
 鯉の形の帯留は母から直接もらったものです。椿の形の帯留は現在もチョーカー(首にフィットするネックレス)の飾りとして使うことがあります。可愛らしくて、よくできたものなので、本来の用途を超えて活用しています。」
学芸員の一口メモ
 今回展示している装身具や化粧道具は、およそ大正時代頃から昭和時代に作られたものと見られますが、そこには様々な素材や技法、意匠が用いられています。主なものを列挙してみますと、まず素材は、珊瑚・翡翠・瑪瑙・鼈甲・銀・銅・真鍮・貝・真珠・アルミ・ガラス。技法は、玉細工・鼈甲細工・ガラス細工・鋳造・鍍金・鍍銀・彫金・螺鈿。意匠は、蓮・牡丹・鯉・椿・唐花唐草・菊と桔梗・賽(サイコロ)、といった具合です。
 日本では身に付ける装飾品や小物に精緻な細工を施すことを好む文化があります。例えば江戸時代では根付が代表的なものですし、現代ではさしずめ携帯電話のストラップがそれに位置するでしょうか。かざりに凝縮された世界は、持つ人の心の中に広がり、豊かな喜びをもたらしてくれるのです。

展示内容
第5回展示
「思い出はカメラとともに(前篇)」
【出陳者】
山田 紀幸
【展示期間】
平成20年4月12日(土)〜平成20年6月6日(金)
資料をめぐる思い出
「オリンパス35(OLYMPUS35)は国鉄職員だった父が昭和25〜26年頃中古で購入したものです。終戦後、蒸気機関車での団体旅行が始まって、庶務助役という商売柄カメラが欲しくなったようでした。プリモフレックス(PRIMOFLEX)もいつの間にか購入していました。
 私も小さな頃からカメラに興味を持って、小学校の理科室で先生から現像や焼付けを習いました。高校進学後、益々カメラ熱があがり、ついにオリンパス-ペン-F(OLYMPUS-PEN-F)を購入したのでした。西和佐村の元村長さんとも現像を楽しみました。」
学芸員の一口メモ
 オリンパス35は昭和23年(1948)に発売された国内初の35ミリ判カメラです。小型化、軽量化、速写性を実現し、すばやく撮れることから「巾着切(すり)カメラ」とも呼ばれました。オリンパスは、大正8年(1919)に高千穂製作所として設立された会社。
 オリンパスペン―Fはハーフサイズといって、フィルムを半分のサイズで使用し倍の枚数を撮影できるカメラです。世界で初めて、そして唯一のハーフサイズ一眼レフ(ファインダーとレンズがつながっている)カメラとして昭和38年(1963)に発売されました。
 プリモフレックスは東京光学が昭和26年(1951)に発売したカメラで、6×6版という大きなフィルムで撮影します。
 戦後の復興期、多くの人がカメラを手にして思い出を記録しました。それを担ったのがこれら国産カメラだったのです。
(このメモの作成にあたり、オリンパス株式会社のウェブサイトを参考にしました。)

展示内容
第6回展示
「思い出はカメラとともに(後篇)」
【出陳者】
山田 紀幸
【展示期間】
平成20年6月7日(土)〜平成20年8月6日(水)
資料をめぐる思い出
「昭和三七年(一九六二)五月に妻と結婚し、五泊六日で九州一周の新婚旅行に出かけました。最終日、別府・高崎山のサルと写真を撮っていたとき、40歳前後の二人連れの女性に「カメラを直して下さい」と頼まれましたが、フィルム巻き上げ装置が動かなくなっており修理は無理だったので、かわりに写真を撮って送って差し上げました。
 それ以来相手の方の一人とは、年賀や暑中見舞い、旬のものを贈りあったり、手作りの人形等手芸品を頂いたりで、今年で46年目のお付き合いとなります。父の買ったカメラとの出会いから、こんな形で人間同士が触れ合える人生も楽しいものですね!」
学芸員の一口メモ
 日本で初めて「新婚旅行」に出かけたのは坂本龍馬であるといわれます。慶応2年(1866)、京都・寺田屋で伏見奉行の役人に襲われ傷を負ったものの一命をとりとめ、その際に機転を利かして龍馬を救ったお龍とともに、薩摩藩の支援で京都を脱出し鹿児島への旅に出かけたのでした。
 龍馬の旅は現在の意味での新婚旅行と同じではありませんが、明治時代には西洋のハネムーンの概念が翻訳され、新婚夫婦が旅行を行うことが一部資産家などで行われ始めたようです。昭和になると庶民の間にも新婚旅行の風習が大きく広がりました。
 新婚旅行先は、現在は海外(ハワイ・オーストラリアなど)が多くなっていますが、かつては、関東では熱海、関西では白浜など、国内の温泉地が一般的でした。最近話題の宮崎県は、昭和49年(1974)に、37万組もの新婚夫婦が訪れた新婚旅行のメッカでした。

展示内容
第7回展示
「思い出再発見―私と父と木のおもちゃ―」
【出陳者】
湯峯 愛
【展示期間】
平成20年8月7日(木)〜平成20年10月24日(金)
資料をめぐる思い出
「こどもの頃よく遊んでいたスウェーデン製の木のおもちゃです。特にハンマーでボールをたたくものは、飽きずに何度もたたいたのを覚えています。
 20年ほど前、和歌山市立こども科学館に勤めていた父が「世界の木のおもちゃ」という展覧会をしたとき、兵庫県にある日本玩具博物館の所蔵品を展示しました。その後資料を返却した際に、日本玩具博物館で販売されていたこれらの木でできたおもちゃが気に入り、購入したそうです。
 物入れの奥から出てきた思い出の品は意外にも「博物館」と関わりを持つものだったのです。」
学芸員の一口メモ
 3点の木製玩具はどれもブリオというスウェーデンの玩具会社で作られたものです。1884年、イヴァー・ベングトソンというかご職人によって始められたブリオは現在、世界有数の木製玩具メーカーになっています。
 日本の各地にある郷土玩具にも、こけしやコマ、だるま、けん玉など木でできたものがたくさんあります。和歌山県では海南市の紀州雛を始めとして、車輪が回ると杵が動く米搗き車(和歌山市)やクジラの彫り物に車輪がついた鯨車(太地町)などが知られています。
 紀州雛は、海南市の寺下幸司郎がデザイナーの明石聖一とともに1932(昭和7)年に商品化しました。エゴノキをロクロ挽きした木地に漆塗りを施した、丸くて愛らしい雛人形は人びとに愛され続けています。

展示内容
第8回展示
「博物館の思い出@―青岸渡寺大日如来坐像の複製―」
【出陳者】
和歌山県立博物館
【展示期間】
平成20年10月25日(土)〜平成20年12月12日(金)
資料をめぐる思い出
 「この仏像は、和歌山県那智勝浦町の那智山青岸渡寺に所蔵される、銅造大日如来坐像の複製です。実物は重要文化財に指定されています。博物館がまだお城の中にあった昭和五五年、熊野信仰の紹介のために作ったものです。
 作り方は、まず実物を薄いアルミ箔で覆い、その上にシリコンを塗ります。これが外型となります。この型をもとにプラスチックで作ったものが茶色の像です。外型から石膏鋳型(白い像)を作り、銅で鋳造した後、表面に金と水銀を混ぜたアマルガムを塗って焼き付ける鍍金を行って完成です。両腕がはずれるのも実物と同じ仕様です。」
学芸員の一口メモ
 この大日如来坐像の実物は、実は地面の下から掘り出されたものです。熊野三山の一つ、那智山(那智勝浦町)は、落差一三三メートルの那智滝で有名です。この那智滝は、滝自体が神であり仏であるとして、昔から信仰されてきました。この滝に向かう参道入口に、かつて「枯池」と呼ばれた場所がありました。大正七年、参道の整備のためにこの枯池を掘ったところ、仏像や仏具、経筒などが出土したのです。この大日如来坐像は大量の仏像からなる立体曼荼羅の中尊像で、記録から大治五年(一一三〇)に行誉という僧によって埋納されたものだったのでした。
 博物館の常設展示では、和歌山の歴史を通史とトピックスによって紹介していますが、文化財保存の観点から、全てを実物資料でまかなうことはできません。こういった複製資料は、文化財保存と展示活用の間をつなぐ「架け橋」といえるのです。