能面 小尉(こじょう) 室町〜桃山時代 個人蔵
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江戸時代、能は年中行事や儀礼の際に行われる最も正式な舞踊・音楽(式楽)として位置づけられていたため、大名家はこれを深くたしなむ必要があった。紀伊徳川家初代藩主の徳川頼宣は、幼少のころより能に優れた才能を見せていたようで、父・徳川家康は彼に能役者を家臣として付けていたほどであった。そのため頼宣入国後の紀伊国では、和歌山城や江戸の紀伊藩邸で行われる公式の能のほか、各地の別邸で私的な演能も数多く行われるなど、能の文化が花開いていた。
この頼宣時代の能のようすを知るための資料は、現在ほとんど残されていない。そんな中、昭和9年(一九三四)に紀伊徳川家の末裔の手を離れて民間に流出していた能面11面の存在が、近年明らかになった。これは、仮面に付けられた付箋や付属文書の情報から、頼宣が家康から直接拝領した面や、家康の死後に御三家(尾張・紀伊・水戸の徳川家)に分けられた御分物(おわけもの)にあたるものとして伝来してきたことが分かる。それぞれの面は室町時代から桃山時代にかけて作られた堅実で優れた作行のものである。また各面には、収納時に入れておく豪華な面袋も用意されていて、これは中国・明時代の舶来の品や、特別にあつらえた金襴を用いたもので、紀伊徳川家ならではというべき水準を見せている。
さらに能面を収納するための、鶴を蒔絵で描いた漆塗の面箪笥も残されてきた。紀伊藩お抱え能役者の徳田隣忠が著した記録に、「鶴の丸」という面箪笥には頼宣が家康よりもらった面が入れられていて、それを頼宣の長男、徳川光貞が能役者に使用させたことが記されている。こういった情報との一致も含め、これらの仮面が紀伊徳川家に伝来したものであることは確実で、家康所用の品とする伝承も信憑性が高い。
紀伊徳川家の手を離れ流転していたこの資料は現在、所蔵者のご厚意により、頼宣のいた和歌山城のすぐそば、県立博物館の収蔵庫で保管させて頂いている。
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