展示のみどころ


知られざる紀州の画家、大集合!

 



 紀州の狩野派って?  

 江戸幕府は、室町時代から続く絵の流派である狩野派(かのうは)の画家を、お抱(かか)え絵師(えし)に登用し、絵の仕事を専門に担当させました。こうした幕府にならって、紀伊藩でも江戸の狩野派で学んだ画家を積極的に登用し、藩のお抱え絵師としたのです。紀州でも、そうした狩野派の画家が数多く活躍していました。

 祇園南海の巻物発見!  

 日本の文人画家を代表する一人である祇園南海(ぎおんなんかい)(1676~1751)は、紀伊藩(きいはん)の儒学者(じゅがくしゃ)でした。一時、城下追放になりましたが、後に名誉を回復し、藩校の教授を務めた人物です。今回、この南海が白浜温泉を訪れて書いた漢詩の原本が発見されました。まるで絵のように大胆なデザインの書風が魅力です。

 桑山玉洲が描いた、雪の飲み会  

 和歌浦の廻船業を営む家に生まれた桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)(1746~99)は、紀州三大文人画家の一人で、カラフルな花鳥画や山水画を得意としました。今回は、最近発見されて博物館の所蔵になった作品で、雪の中の飲み会を描いた絵をご紹介します。ダイナミックに絵の具を散らした雪の描き方に注目です。

  弟子がたくさん、介石先生  

 和歌山城下の町人の出身で、後に紀伊藩士に登用された野呂介石(のろかいせき)(1747~1828)も、紀州三大文人画家の一人として全国的に有名です。紀州の風景を題材に山水図を描き、また、多数の弟子を指導して紀州の画壇に大きな影響を与えました。今回は、介石とその弟子の作品をあわせて展示します。

 マイナーな画家も、実はスゴイ!  

 南海、玉洲、介石といった紀州三大文人画家が活躍したおかげで、紀州では文人画が流行し、さまざまなアマチュア画家が活躍していました。彼らの中には、現在はマイナーな画家ですが、江戸時代には全国に知られ、各地の著名な文人たちと交流を持ったような、スゴイ画家もいたのです。

 百花繚乱の江戸後期  

 江戸時代の後期になると、華やかな色彩で、花鳥画や風俗画を描く画家が活躍するようになります。その背景には、中国や西洋の写実的な絵の影響や、正確に動植物を描こうとする動向があったのです。一方、古典的な大和絵の表現を復活させようとする画家もあらわれ、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)となりました。