主な作品の紹介


重要文化財

阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう) 1躯

平安時代(12世紀) 安楽寿院蔵 (展示資料目録33)

 等身の大きさで、両手で定印(じょういん)を結ぶ阿弥陀如来像。現在は安楽寿院の本尊となっている。天文23年(1554)の修理銘から、もとは鳥羽天皇陵内にあった本御塔(ほんみとう)(三重塔)に安置されていたことがわかる。痩身、やや面長(おもなが)の面相部が特徴で、制作した仏師には諸説がある。光背の透彫り周縁部、台座の一部(蓮弁のほとんど、敷茄子(しきなす)、受座、框座(かまちざ)は仏像制作当時のものとされる。

 この仏像が安置されていた本御塔は、覚栄が活躍していた慶長17年(1612)に、五間四方の仮堂として再建された。


  

@八条院像  1幅
(はちじょういんぞう)   

桃山〜江戸時代(16〜17世紀)
安楽寿院蔵 (展示資料目録36)

A伝美福門院像 1幅
(でんびふくもんいんぞう)  
 

江戸時代(18世紀)
個人蔵 (展示資料目録68)

 @は安楽寿院に残されている、鳥羽法皇像(とばほうおうぞう)・美福門院像(びふくもんいんぞう)・八条院像(はちじょういんぞう)(三幅対)のうちの八条院像。八条院(1137〜1211)は鳥羽天皇(1103〜56)と美福門院(1117〜60)との間に生まれた皇女である。三幅対とも桃山時代〜江戸時代初期の制作とされ、近衛天皇陵内にあり、慶長2年(1597)に再建された勤行所(ごんぎょうしょ)(勤行堂)に掛けられていたと考えられる。安楽寿院の復興を中心的に行っていた覚栄や慶長11年に新御塔(しんみとう)(近衛天皇陵内にある多宝塔)の復興を命じた豊臣秀頼(とよとみひでより)(1593〜1615)が、制作にかかわっていた可能性もある。

 一方、Aは安楽川(荒川、紀の川市桃山町)の旧家に伝わるもので、像主は美福門院と伝えられている。制作時期は@より少し下る江戸時代中ごろとされ、明らかに@の写しとわかる。江戸時代中ごろ、安楽川では、美福門院の隠棲地(いんせいち)であるという伝承が広まっており、こうしたなかで、@をもとにAが制作された、と考えられる。ただ、写された経緯や像主とされる人物が異なる点などは、今のところ不明である。


 

遍照院覚栄書状(へんじょういんかくえいしょじょう)  1通

江戸時代 慶長15年(1610) 個人蔵 (展示資料目録66)

  安楽川(荒川)荘の公文(くもん)を勤めたとされる奥家に伝来した覚栄の書状。重俊の父である重政は、木食応其(1536〜1608)と不仲となり、秀吉からも追捕の使者が来たことから、諸国放浪の身となった。その後、浅野家の家臣となり、長男清蔵も浅野家に仕えたことから、二男の重俊(源太郎)が安楽川に戻り、家督が譲られた。

 この書状は重俊が家督を譲られたのに伴い、覚栄が安楽川荘中に相続内容を確認したもので、雨山(用益権)を預けていた安楽川荘中に対して、その返却をもとめ、その根拠として「上人様(応其)之直書」の存在を指摘している。覚栄が応其に代わって、安楽川荘の支配に関与していることを示すものである。