作 品 紹 介

 

@僧湛慶山地譲状(願成寺蔵、久寿2年(1155)、和歌山県指定文化財) : 展示番号2

 現在の海南市北部にあたる三上荘を開発した湛慶上人が、開発した山地を弟子に譲り渡した時の証文です。はじめ、「深山」を切り開いて願成寺を建立し、その周辺の山地を開発していったと記されています。平安時代後期は、全国的に未開の山地が伐り開かれた時代で、そういう時代の風潮を反映するかのように、この文書でも、「黒山は伐り掃うを以て主となす」と記されています。「黒山」とは未開の山地を表し、そこは最初に伐り払った者がその所有者となるという、当時の土地所有観念を象徴する言葉が記されています。

 

A重禰郷百姓等申状案(個人蔵、戦国時代、和歌山県指定文化財) : 展示番号12

 戦国時代、現在の和歌山市から海南市北部にかけての地域では、土豪たちが連合して地域支配を行う「紀州惣国」が成立していました。この文書は、その支配を受ける重禰郷(現在の海南市重根付近)の百姓等が、紀州惣国との間で生じていた年貢納入をめぐるトラブルに関する百姓側の主張を述べたものです。戦国時代の紀州では、各地でこうした村落や土豪たちによる「自治」が活発に行われており、そうした戦国時代紀州の民衆の力量の高さを物語る貴重な史料です。

 

B粉河寺寺務御教書
 (若一王子宮講会蔵、正平13年(1358)、重要有形民俗文化財) : 
展示番号23

 粉河祭の原型とも言える粉河寺六月会。この祭は南北朝時代には行われていたようで、粉河寺周辺の村々から、村人が「頭役」と呼ばれる一定の負担をおこなって、祭を支えていました。この文書は、この祭で奉納される相撲の「頭役」をめぐって、東村と荒見村のふたつの村が争って裁判を起こした際、これを裁許した粉河寺から下された判決文です。裁許は東村の勝訴とするものですが、この後もたびたび、六月会をめぐる村同士の裁判が繰り返されました。祭は村や村人にとって、その名誉に関わる重大な意味をもっていました。