章立てと主な作品の紹介
第1章 熊野への誘い―時空を超える歴史の旅へ―
熊野権現縁起絵巻(くまのごんげんえんぎえまき)(部分)室町~江戸時代 田辺市教育委員会 田辺市指定文化財
紀伊半島の南東部、熊野地方に、それぞれ20~30㎞ほど離れて位置する本宮・新宮・那智山の三つの宗教的な聖地があり、あわせて熊野三山と呼ばれています。 かつてこの熊野三山へは、日本中から神仏に救いを求める参詣者が訪れました。そうした人びとを熊野に誘うために用いられた絵には、きらびやかな聖地の光景が、山・川・滝など現地の雄大な自然環境と、脈々と語り継がれた聖なる物語とともに描かれています。まずはこれらの唱導画に誘われて、熊野の歴史の旅へと出発しましょう。
第2章 神々の出現―熊野の環境と神話・説話・伝承―
本宮本社末社図(ほんぐうほんしゃまっしゃず)(部分)江戸時代 熊野本宮大社
山中にありながら豊富な水量を誇る大河、熊野川。その上流に本宮が、河口部に新宮が鎮座しています。そして那智山には大瀑布である那智滝が流れ落ちます。新宮のランドマークである神倉の巨大な磐座なども含め、熊野では、神々の祭祀地はいずれも雄大な自然環境と密接に結びついています。 こうした自然環境と、断片的な神話・説話・伝承を紡ぎあわせるともに、熊野地域に伝わった日本を代表する優れた神像彫刻へのまなざしを通じて、熊野の神々がいかに出現したのか、眺めてみましょう。
第3章 神と仏の邂逅―熊野三山の成立と熊野縁起―
熊野本地仏曼荼羅(くまのほんじぶつまんだら)(部分)鎌倉時代 熊野那智大社 和歌山県指定文化財
本宮・新宮・那智山の神が「三所権現」というまとまりをもって確認できる確実な初例は11世紀後半まで降ります。それ以前の平安時代半ばから三つの聖地の融合は徐々に始まっていたようですが、そのころ三山のそれぞれは、法華経を信仰する修行者が集まる、神仏習合の場ともなっていました。 かつて雄大な自然に神の存在を感じて成立した熊野の聖地は、仏教と深く融合するなかで熊野三山として新たに捉え直されていき、地方神からの脱却を果たします。そうした熊野の神仏習合の状況を確認しましょう。
第4章 熊野御幸―院政期の熊野参詣―
熊野御幸図写(くまのごこうずうつし)(部分)和歌山県立博物館
神仏が習合した熊野三山では、本宮主神家津御子大神が阿弥陀如来、新宮主神熊野速玉大神が薬師如来、那智山主神夫須美大神が千手観音と同体とされ、その地は神仏の住む浄土と認識されました。そうした熊野への参詣は、現世を離れて浄土に赴き、滅罪や現世利益、後生安穏を願う山岳修験の擬死再生の修行として行われました。 寛治4年(1090)の白河上皇の参詣を端緒に、白河9度、鳥羽21度、後白河33度、後鳥羽28度に及ぶ上皇の熊野御幸により、熊野は一躍全国区の聖地となったのです。
第5章 全国から熊野へ―熊野参詣の隆盛―
寂円檀那譲状(じゃくえんだんなゆずりじょう)熊野那智大社 重要文化財
上皇による熊野御幸は、承久の乱後に後鳥羽上皇が隠岐へ配流されて院政が中断したことで収束を迎えます。それに代わって、熊野参詣の主体となったのは、北は陸奥国(青森県)から南は薩摩国(鹿児島県)まで、全国各地の地方武士や庶民層でした。 そうした人びとが熊野へ参詣するにあたって、修験の行として全国の先達(修験者)が誘導し、山内では御師が神仏と取り次ぎ宿所を提供する参詣システムが構築されていきました。「檀那」と呼ばれた参詣者を巡る営みを熊野那智大社文書から確認します。
第6章 聖地の再興―遷宮と勧進―
桐唐草蒔絵手箱(きりからくさまきえてばこ)南北朝時代 熊野速玉大社 国宝
南北朝時代末期の明徳元年(1390)、長く途絶えていた新宮の遷宮が、足利義満の強い意向によって幕府の全面的支援のもと行われました。この時調進された熊野速玉大社の古神宝類が、当時の耀きを残したまま今日もその大半を伝えています。 室町時代以降はこうした公的援助による造営や維持が低調となり、代わって勧進活動が活発化し本願所が設けられました。三山ともに勧進道具として那智参詣曼荼羅が用いられており、熊野のシンボルは、次第に那智山(那智滝)へと推移していきました。
第7章 熊野参詣道沿いの信仰遺産―近年の調査成果から―
釈迦如来及び阿難迦葉像(しゃかにょらいおよびあなんかしょうぞう)貞和3年(1347) 康俊作 海雲寺
熊野参詣道は、淀川河口から熊野本宮に到る紀伊路と、伊勢から熊野神宮へと到る伊勢路に大きく分けられ、紀伊路はその途中から中辺路とも呼ばれます。ほかに紀伊半島を大きく巡る大辺路、高野山から熊野への道である小辺路があります。 こうした参詣道沿いには、王子社をはじめとして、熊野信仰に関わる信仰遺産が各地に残されています。ここでは、和歌山県立博物館の近年の調査成果を中心に、紀伊路と大辺路の熊野信仰に関わる文化財を紹介します。
第8章 描かれた熊野―文化的景観の形成―
那智山・熊野橋柱巌図屏風(なちさん・くまのはしぐいいわずびょうぶ) 桑山玉洲筆(くわやまぎょくしゅうひつ)江戸時代 念誓寺 和歌山市指定文化財
熊野は、雄大な自然の神格化と、そうした環境における厳しい山岳修行をルーツとして、重層的に聖地が形成されていきました。隆盛を誇った熊野参詣も、こうした自然環境を基盤とする熊野修験の信仰のかたちでした。 自然環境や参詣道と渾然とあいまった聖地熊野の景観は、山中を歩み、川を下り、海辺を進んで聖地を巡った膨大な参詣行為の積み重ねによって、文化的に形成されてきたものといえるでしょう。そうした文化的景観の諸相を、一遍聖絵や熊野曼荼羅、そして近世の文人画から確認します。
第9章 世界遺産への道―未来への旅―
近露王子神社宮殿(ちかつゆおうじじんじゃくうでん)貞享5年(1688) 個人 田辺市指定文化財
平成16年(2004)、熊野三山・高野山・吉野山・大峯山とその参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されました。聖地と参詣道、そして周囲の文化的景観が、卓越した人類普遍の遺産として位置づけられたのです。 熊野は神仏分離や神社合祀、自然災害など、近現代期だけでも大きな苦難を幾度も乗り越え、聖地の姿が継承されてきました。自然と一体化した聖地の魅力を、数々の歴史や物語とともに再認識することが、世界遺産を未来へ伝える新たな旅の出発点です。