=== コ ラ ム ===

 

第一回  那智大滝と信仰のかたち

 落差133m。日本一の高さを誇る那智大滝は、見る者の心を確かに動かす迫力に満ちている。古来、この雄大な大滝の姿に、人々は神そのものの存在を意識してきた。そして神仏を表裏一体のものとする本地垂迹の考えにより、飛散する水と洗われた岩肌のかたちから、千手観音の姿もそこに投影された。滝は、神であり、仏であった。

 那智山の始まりを具体的に示す資料に恵まれないが、長久元年(1040)頃編纂の『本朝法華験記』に那智山の僧侶が焼身往生を行った説話が収載されていて、平安時代中期頃においてはこの地が、法華経の教えを守って実践の修行を行う山岳修行者の拠点であったことがわかる。滝に観音の姿が投影されたのは、観音菩薩を説く根本経典である法華経との結びつきが強い場であったことと無関係ではないだろう。この千手観音について、那智山の入口である浜の宮・補陀洛山寺の本尊千手観音立像(重文)は、本面のほかに両耳後ろに顔のある三面千手という特殊な姿である。平安時代後期、十一世紀の制作と見られ、熊野の特殊な千手観音の姿を伝えている。

 一方神事の始まりについては、熊野那智大社に十世紀に遡る女神坐像が伝えられていることが唯一の手がかりといってよい(那智山内の尊勝院旧蔵という)。山岳修行とともに、なんらかの神事が行われる場も、やはり平安時代中期頃には設定されていたようだ。

 熊野三山の一つとして隆盛を極めた那智山の歴史を語る縁起は数多い。しかし分厚く荘厳された縁起のベールの下に内包される歴史的事実を見極めるのは難しい。世界遺産となった那智山の歴史の具体像を明らかにする作業は、残されてきた資料を丹念に検討する中で、明らかにしていく必要がある。

(当館学芸員 大河内 智之)



重文 千手観音立像 平安時代 補陀洛山寺蔵



女神坐像 平安時代 熊野那智大社蔵

 

第二回  那智経塚の仏像群

 那智の滝へと至る参道一帯には、数多くの経塚が築かれていた。経塚とは、土中に経典を埋めた場所のことで、平安時代後期に、釈迦如来の入滅から2千年を経ると仏法が衰えてしまうという末法思想が流行する中、弥勒仏がこの世に登場し人々を救済するという56億7千万年後まで仏法を残そうとした、護法の行為である。経典は銅製の筒や陶製の容器に入れられ、魔除けのための鏡などがともに埋められることが多い。

 経塚の築造自体は全国的に見られ、熊野古道沿いにおいても散見されるが、特に那智経塚の場合においては他に類を見ない特徴があった。それは、大量の仏像がともに埋められていたということである。その中でも特筆されるのは、密教における仏の世界を示した「曼荼羅」を立体的にあらわした仏像群である。大日如来を中心に、四仏・四菩薩の八躯と、菩薩の姿を手先の形や持ち物であらわした三昧耶形(さんまやぎょう)、密教法具一式が埋納されていたのだ。実はこれらの埋納の経緯について記した書物が山内に伝わっていた。それによればこれら曼荼羅壇は、那智山の僧行誉によって大治5年(1130)に経典とともに埋められたもので、埋納の実態が判明する希有な事例でもあった。

 那智経塚にはもう一つ、重要な特徴がある。それは観音菩薩の姿を表した仏像類が多く確認されていることである。そしてそれらのほとんどは、飛鳥時代や奈良時代に作られた古像であった。平安時代後期において那智山は、観音の住む浄土、補陀落山(ふだらくさん)そのものと認識されていた。滝の周辺は、未来永劫、神聖な場であり続ける観音の居住地と考えられたがゆえに、経典を埋める場所に選ばれた。そして当時伝わっていた貴重な古像、すなわち観音の原初的な姿と考えられていたであろう仏像も、その観音浄土に埋めたのである。那智経塚は、観音への熱烈な信仰を納めたタイムカプセルなのである。

(当館学芸員 大河内 智之)

 

 

 

 



 

 

 

現存資料による曼荼羅壇の復元



重文 観音菩薩立像 奈良時代 
那智山青岸渡寺蔵

 

第三回  那智参詣曼荼羅が語るもの

 那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)をご存じだろうか。那智山におけるさまざまな信仰の場と、そこに参詣する人々、那智山にまつわる物語(縁起)を、縦横およそ160pほどの大画面に描き込んだもので、16世紀後半頃から17世紀にかけて作られた。

 画面右下に那智山の入口にあたる浜の宮が描かれ、そこから参詣道をたどっていくと、画面上部に描かれた熊野十二所権現社殿(現在の熊野那智大社)と如意輪堂(現在の那智山青岸渡寺)に至る。さらに画面右方に向かうと、聖地としての那智山を象徴する那智滝と、その付近に立ち並ぶ堂舎も描かれる。ちなみにこの滝の所に、二人の童子に抱えられた僧侶が描かれている。これは鎌倉幕府成立の立役者である文覚上人。那智滝での過酷な滝修行により気を失った際、不動明王に従う二童子によって助けられたという伝説が示されている。あるいはその文覚の左横の建物、那智滝拝殿では杉の大木が屋根を貫いて伸びている。滝の持つ生命力、神秘性を強調するアイテムとして描かれているようだ。こういった伝説や聖地が散りばめられたこの絵は、何のために使われたものだろうか。

 実はこの絵を作成し、用いた主体が、画中に示されている。画面の左端、中央に描かれる本願所(ほんがんしょ)という寺院である。本願とは勧進僧の集団のことで、寺院の運営や諸堂舎の建立、修復に際して必要な費用を集める役目を担っている。本願所には山伏や熊野比丘尼が属していて、那智参詣曼荼羅を携えたこの比丘尼らが那智山のさまざまな縁起を絵解き、この地が霊験あらたかであることをアピールしたのである。ある時は那智山への参詣を促し、またある時はお布施を呼びかけながら。那智参詣曼荼羅は現在、日本中に34点も確認されていて、今後も発見が続くものと予想される。この絵が、熊野信仰が全国津々浦々へと浸透する上で果たした役割は極めて大きい。

(当館学芸員 大河内 智之)

県指定文化財 那智参詣曼荼羅 室町時代 熊野那智大社蔵

 

第四回  眠りから覚めた法華経

 現在、那智勝浦町所蔵となる法華経八巻が残されている。長らく奈良国立博物館に預けられ、公開される機会も今日までなかった。存在自体が忘れられていた、といってもよい。

 この法華経は、紺色に染められた紙に金泥で写経されたもので、経典としては最上級の仕上方法をとっている。表紙の裏側には法華経の内容を絵画で表した見返絵が伸びやかに描かれ、第八巻目には仁治四年(一二四三)の書写であることも記されていた。鎌倉時代前期に制作されたことが判明する貴重な法華経であったのだ。ではこの法華経はどういう歴史をたどってきたのだろうか。

 町の所有となる以前は、那智勝浦町勝浦にあって現在は廃絶している松音寺という寺院に伝来していた。この法華経とともに、また別の経箱も伝わっていて、その蓋には永正八年(一五一一)の紀年銘とともに「奉納熊野那智山如意輪堂」と刻まれている。すなわちこの経箱は、もとは那智山如意輪堂、現在の那智山青岸渡寺に奉納されたものであった。先の法華経も、本来は那智山の如意輪堂に納められていたと考えて間違いないだろう。

 明治時代、政府によって進められた神仏分離政策により、那智山においては仏教的な要素が徹底的に排除された。那智山の如意輪堂でも、本尊像を山下の別の寺院に移しているが、この法華経もその時に流出し、現在に至ったものと考えられる。

 那智山は平安時代から、法華経の教えを守る山岳修行者たちの拠点であり、その実践的な修行の場であった。法華経との関係の深さから、そこに説かれる観音菩薩の信仰もおこり、都に住む人から観音の住む浄土と見なされた。今ではほとんど意識されない要素であるが、滝への信仰は、法華経と観音の信仰とも重なっているのである。那智山から離れて流浪し、今ようやくその価値が再発見されたこの法華経が、那智山の信仰の具体像を、我々に問いかけてくれている。

(当館学芸員 大河内 智之)

 法華経 巻第八  那智勝浦町蔵

 

第五回  補陀落渡海という現象

  那智山における特殊な信仰のあり方として、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」がある。これは那智山の入口にあたる浜の宮の海岸から、南のはるか彼方の海上にあるという観音菩薩の住む浄土、補陀落山へと船を漕ぎ出す行為である。漕ぎ出すといっても、渡海を行う僧侶が乗る船は四方に鳥居が立てられたいわば「棺桶船」であり、船上の小屋に入った後は外から釘で打ち付けられたという。いわば死に出の旅であり、生命の尊厳を最上のものとする現在の私たちの感覚からすれば、その行為の意義を簡単にはみいだせない。いったいこの補陀落渡海はどういった宗教的背景のもとに行われたのだろうか。

 那智山における信仰のあり方を伝える、最も確実で古い記録は、長久元年(1040)頃編纂の『本朝法華験記』に所収される「奈智山の応照法師」の説話である。ここには法華経を守ってそこに説かれる実践的な修行を行った応照という僧侶が、その法華経に説かれる身を燃じて捧げることが最上の施しという教えにもとづき、焼身して往生したという内容が示される。こういった修行を捨身行(しゃしんぎょう)というが、人間が生まれながらに背負う原罪を解消し、仏のもとへと生まれ変わろうとする滅罪の行為なのである。那智山という聖地は、このように法華経の教えを守る修行者による修行の場をルーツとしており、この信仰のあり方は古代、中世を通じて継承された。すなわち補陀落渡海という現象は、法華経の実践的な修行のあり方として継承された捨身行の一形態であったのだ。

 この補陀落渡海に関しては、金光房という僧が渡海船から逃げ出し、結局むりやり水に沈められたという伝承と、それをもとにした井上靖の小説(「補陀落渡海記」)が著名で、あたかも悲惨で残酷な行為であったと捉えられがちである。しかし、本来は宗教的確信にもとづいて行われた観音浄土を目指す希望の旅路であり、それを忘れては渡海僧も浮かばれまい。

(当館学芸員 大河内 智之)



那智参詣曼荼羅に描かれた渡海船



復元された補陀落渡海船

 

第六回  月光に浮かぶ那智滝

 落差133メートルを誇る那智滝は、その圧倒的な存在感から神そのものと認識された。人の心を揺り動かす、まさに感動に満ちたこの滝は、幾多の画家によって絵画のモチーフとして取り上げられてきた。おそらく今日においても、有名無名を問わず、那智の滝の絵画作品は生み出されているだろう。

 那智滝を描いた絵画として最も著名なのが、東京都・根津美術館所蔵の《那智瀧図》(国宝)である。これは神体としての那智滝を画面の中心に大きく描き出したもので、弘安4年(1281)に那智山に参拝した亀山上皇を願主として制作されたと考えられている。画面に目を向けると、右上に月が大きく描かれていることに気づく。その月光に照らされた滝を我々は見ていることになる。月光と滝という静謐なイメージは神としての那智滝を強調するものであり、本図が単なる風景画ではなく、滝への信仰の所産であることを如実に示している。

 本図の制作から大きく降って、昭和54年(1979)に描かれた一枚の日本画がある。《幻想那智》(和歌山県立近代美術館蔵)は、田辺市出身の日本画家、稗田一穂(ひえだかずほ)によって描かれた。海上より那智滝を見る構図は奥行きがあり、月と月明かり、そしてそれに照らされた那智滝が静謐な印象を与え、聖地としての那智山のイメージをまっすぐに伝えている。鎌倉時代制作の《那智瀧図》に既に見られた月と月明かりと滝というモチーフが、現代に再構築されているともいえる。しかし《幻想那智》は《那智瀧図》を本歌として制作されたわけではない。奇しくも一致した、伝統的でありながら現在的でもある那智山の聖地観は、昔も今も変わらず流れ落ちる滝の光景を、それぞれの作者が等しく共有しているがゆえに現れたものといえよう。滝は縦糸として人の心を紡いでいく。那智滝が流れ続ける限り、那智山は特別な場であり続けるだろう。

(当館学芸員 大河内 智之)



 国宝 那智瀧図 根津美術館蔵

 

 

 





幻想那智 和歌山県立近代美術館蔵