作 品 紹 介

 

      

根来寺伽藍古絵図
根来寺蔵 江戸時代 和歌山県指定文化財

  室町時代後半(16世紀)における根来寺最盛期の境内の様子を描いた絵図。図中に「興教大師拝殿」の文字があることから、覚鑁(1095〜1143)に対して大師号が追贈された元禄3年(1690)以降に制作されたものであることは確実である。しかし、描かれている内容は、他の文献史料や、発掘調査の成果などとも符合する点が多く、何らかの確実な根拠資料をもとに制作されたことがうかがえる。絵図の右端に、日輪(太陽)と月輪(月)を描き、多くの人物描写もみられることから、参詣曼荼羅図的な要素もみられる。根来寺の境内の範囲を主張する目的もあったとみられ、北の境界は和泉山脈中腹の押川集落付近の金剛童子社を含み込む形で描かれている。

 


 

根来寺堂塔書上(太郎兵衛講文書のうち)
個人蔵、慶安3年(1650
)

 泉佐野市大木の旧家数軒で構成される太郎兵衛講と呼ばれる同族講には、70点余の中近世文書が伝わっている。そのうちの一部は、根来寺万福院関係の文書で、太郎兵衛家が根来寺と深い関係を有していたことがうかがわれる。この文書はそのうちの1通で、根来寺境内の主要な堂塔について、その規模や構造、本尊像の種類なども含めて詳細に書き記したものである。末尾に「慶安三年庚寅九月朔日」の日付があり、この年に書かれたものと考えられるが、この当時には焼失しているはずの堂塔についても詳細に書き留めている。

 


  

興教大師像
根来寺蔵、室町時代

 覚鑁は、嘉保2年(1095)、肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)に生まれ、20歳の時、初めて高野山に登った後、高野山上において伝法二会(修学会・練学会)の復興を志し、鳥羽上皇の後援も受けてこれを行うための大伝法院を高野山上に建立した。しかし、こうした大伝法院方勢力の急速な勢力拡大は、かえって高野山金剛峯寺方の勢力との対立を深めることとなり、ついに保延6年(1140)頃、覚鑁は高野山を下山して弘田荘根来(現在の岩出市根来)の豊福寺に移ることとなった。康治2年(1143)、覚鑁は同寺境内に円明寺・神宮寺を建立し、鳥羽上皇を迎えて落慶法要を行ったが、その年の12月、円明寺の西廂において49歳の生涯を閉じる。興教大師の諡号は、元禄3年(1690)、東山天皇によって追贈されたものである。

 覚鑁を描いた中世の肖像はそれほど多くはないが、現在、長谷寺・智積院などに数本が伝わっている。本作品は、それらよりはやや制作年代が降るものの、中世に遡るものとして貴重な作例である。裏書によれば、丹波国氷上郡金山城主赤井直実の子孫が、明和5年(1768)に奉納したものである。