覚鑁は、嘉保2年(1095)、肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)に生まれ、20歳の時、初めて高野山に登った後、高野山上において伝法二会(修学会・練学会)の復興を志し、鳥羽上皇の後援も受けてこれを行うための大伝法院を高野山上に建立した。しかし、こうした大伝法院方勢力の急速な勢力拡大は、かえって高野山金剛峯寺方の勢力との対立を深めることとなり、ついに保延6年(1140)頃、覚鑁は高野山を下山して弘田荘根来(現在の岩出市根来)の豊福寺に移ることとなった。康治2年(1143)、覚鑁は同寺境内に円明寺・神宮寺を建立し、鳥羽上皇を迎えて落慶法要を行ったが、その年の12月、円明寺の西廂において49歳の生涯を閉じる。興教大師の諡号は、元禄3年(1690)、東山天皇によって追贈されたものである。
覚鑁を描いた中世の肖像はそれほど多くはないが、現在、長谷寺・智積院などに数本が伝わっている。本作品は、それらよりはやや制作年代が降るものの、中世に遡るものとして貴重な作例である。裏書によれば、丹波国氷上郡金山城主赤井直実の子孫が、明和5年(1768)に奉納したものである。
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