紀州の荘園


平安時代のなかごろになると、律令制のもとでの土地の国有制にかわって、皇室や貴族・寺社による大規模な土地の私有制が進行した。荘園制の成立である。当初は一部の田地や百姓がばらばらに荘園に編成されていたが、11世紀後半以降、人・集落・耕地・山野河海を一体のものとして支配する領域型荘園が出現し、荘園制が確立する。紀伊国では紀北、とりわけ紀ノ川流域を中心に、早くから荘園制が発達した。

高野枡


一九七七年、伊都郡かつらぎ町柏木区にある宝蔵寺の般若蔵から、応永三(一三九六)年の年記をもつ一升枡が発見された。「高野枡」と呼ばれるようになったこの枡は、官省符荘の荘官が農民から納められた年貢米をはかるのに使っていた。いわゆる「荘枡」である。応永三年は、高野山が寺領荘園の支配体制を建て直すべく実施した大検注が完了した年にあたる。この時点で、高野山は高野枡をつくり、量制を統一し、寺の権威を誇示したのである。