荒川経と荒川荘


美福門院は亡き夫鳥羽法皇の菩提をとむらうため、その三回忌にあたる平治元(一一五九)年、紺紙金字一切経を高野山に寄進した。この時、お経をあげる費用を捻出するための所領(転読料)として、荒川荘(那賀郡桃山町)があわせて寄進された。「荒川経」の名はそこから生まれたのである。また荒川経を納めた六角経蔵も、「荒川経蔵」と呼ばれるようになった。経文とともに表紙の唐草模様、見返しの釈迦説法図が、全て金泥でかかれている。