中世の終焉


天下統一を進めた織田信長にとって、本願寺を支援する紀州の在地勢力は、討伐せねばならぬ存在であった。信長の紀州攻めは充分な成果を上げることはできなかったが、後をうけた豊臣(羽柴)秀吉は10万の大軍を率いて来攻し、雑賀衆・根来衆・湯河氏などの在地勢力を湮滅する。その後、和歌山城を築いて弟の秀長を置き(城代、桑山重晴)、全国に先駆けて刀狩りを実施する。ここに紀州の中世は終焉を迎えた。

根来寺遺跡の焼土層出土品


天正一三年(一五八五)年三月二三日、秀吉軍の兵火にあい、根来一山ことごとく灰燼に帰した。焼け残ったのは、大塔・大伝法堂・大師堂など、わずかな堂宇のみであった。近年の坊院跡の発掘調査で、赤く変色した瓦・漆器・籾米や、火で釉がとんだ陶磁器、赤く変色した瓦・石塔などが多数出土した。これらの遺物は、山内を焼き尽くした天正の兵火の様子を今日に伝えてくれる貴重な資料である。

(大田城水責図・画像)