近代・現代 C神社合祀反対演説草稿



 南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867〜1941)は1867(慶応3)年に和歌山城下で生まれ、1883(明治16)年に上京、1886(明治19)年には大学予備門を中退してアメリカに渡ります。1892(明治25)年にはイギリスに渡り、ロンドンに住んで大英博物館などで独習します。1900(明治33年)
に帰国し生物と民俗や風俗の調査を行いました。
 神社合祀とは1906(明治39年)に出された政策で、特に和歌山県では5800以上あった神社が、数年後には10分の1以下になるという事態がおこります。
 熊楠は、豊かな自然と歴史の宝庫である神社の杜の伐採を憂えて、1909(明治42)年頃から神社合祀に反対し、後には廃案同然にいたらしめました。
 この反対演説草稿は、和歌山県選出の中村敬次郎(政友会)が1912(明治45)年3月に衆議院で演説するために熊楠が書いたもので、反対理由の理由として、「第四ニ、神社合祀ハ国民ノ慰安ヲ奪ヒ、人情を薄くし、風俗を害ヒ(そこない)延テ(ひいて)愛国心ヲ耗(ツイヤ)スル事甚ダシ(はなはだし)」ということなどがあげられています。