展示のみどころ


 

①今話題の真田幸村の雄姿が、県立博物館でもご覧いただけます。初公開

(大坂夏の陣図屛風 耕南筆 個人蔵)

 豊臣家が滅亡する慶長20年(1615)の大坂夏の陣を描いた六曲一双の屛風です。同種の屛風として、岐阜市歴史博物館本と石川県立歴史博物館本(左隻のみ)とがあります。本品は3例目で初公開。屛風の右隻(写真左)の上部には、5月7日の天王寺の戦いが描かれています。茶臼山(ちゃうすやま)には赤備え、六文銭の幟(のぼり)の真田軍が陣取り、その中心に鹿角(かづの)の兜を被(かぶ)り、白馬にまたがり、両手に長刀を持って敵陣(松平忠直隊)に切り込む真田信繁(さなだのぶしげ)(幸村、写真右)が描かれています。この日、大坂城は落城しました。

 

②天下統一を目指した信長・秀吉・家康の肖像画が勢揃い


(織田信長像 浄厳院像)


(豊臣秀吉像 永観堂禅林寺像)


(徳川家康像 紀州東照宮蔵)

  織田信長像(写真左)が残る浄厳院(じょうごんいん)(滋賀県近江八幡市)は、信長の命で、浄土宗の僧侶と日蓮宗の僧侶とが教義の論争(「安土宗論(あづちしゅうろん)」)をおこなった寺として有名です。豊臣秀吉像(写真中央)が残る永観堂禅林寺(京都市)は、本尊の「見返り阿弥陀」が有名です。慶長12年(1607)に秀頼(秀吉の子)の家臣が本堂の再興をおこない、本尊の横に秀吉像が懸けられました。徳川家康像が残る紀州東照宮(和歌山市)は、紀伊徳川藩の初代藩主徳川頼宣(よりのぶ)が、父家康(東照大権現(とうしょうだいごんげん))を祭るために創建した神社で、頼宣はこの家康像を紀州東照宮に奉納しました。

 

③雑賀衆の実像に迫ります。

(左:鉄錆地(かなさびじ)雑賀鉢兜(さいかばちかぶと)
     銘
(めい)紀州(きしゅう)宇治住(うじじゅう)雑賀吉久(さいかよしひさ)
      和歌山市立博物館蔵、和歌山市指定文化財・重要美術品)

(中:過所船旗
(かしょせんき) 個人蔵、重要文化財)

(右:織田信長
(おだのぶなが)朱印状(しゅいんじょう) 個人蔵)

  雑賀衆は、現在の和歌山市周辺を拠点に活動した集団です。鉄砲を早くから取り入れ、信長や秀吉と戦ったといわれています。雑賀衆が着用した兜(かぶと)は「雑賀鉢(さいかばち)」といわれ、鉄錆地(かなさびじ)雑賀鉢兜(さいかばちかぶと)(写真左)はその一つです。宇治(現、和歌山市)に居住した雑賀吉久という人が制作しました。雑賀衆のなかには、海上交易に関わる人もいました。過所船旗(かしょせんき)(写真中央)は、加太(かだ)(現、和歌山市)を拠点に活動した向井氏が、村上水軍の村上武吉から瀬戸内海の航行の許可を受けていることを知らせる旗です。天正5年(1577)に織田信長がおこなった雑賀攻めの直後に、宮郷・中郷・南郷と呼ばれた地域(和歌山市の東部)の人々に出した織田信長(おだのぶなが)朱印状(しゅいんじょう)(写真右)には、戦功に応じて恩賞を与えることが記されています。信長と戦ったといわれる雑賀衆も一枚岩ではなかったことがわかります。