作 品 紹 介

  

 

@紀伊国官省符荘百姓等申状案(個人蔵、応永3年(1396)、展示番号8)

 紀伊国官省符荘は、現在のかつらぎ町東部から橋本市西部、九度山町北部にまたがる広大な領域をもつ、高野山領荘園の中核をなす荘園です。官省符荘とは、国が太政官・民部省などの官庁が発する符と呼ばれる文書によって成立を認めた荘園のことですが、ここではそれが固有名詞として使われ、地名化しました。

 この文書は、室町時代はじめ、官省符荘の百姓たちがみずから書いた訴状で、四○ヶ条以上に及んで、荘官(荘園領主の代官)が賦課する私的な夫役や雑事(付加税)を列挙し、その廃止を領主に訴えたものです。例えば、荘官の「お供」で京都まで連れて行かれたり、荘官の屋敷の建て替えや堀の造作などに徴用されるなどの夫役や、年始の松飾りや季節ごとの菓子を納めさせるなどの雑事があり、これらは百姓たちにとって、たいへんな負担となっていたことが分かります。

 

 

A紀伊国カセ田荘絵図(宝来山神社蔵、室町時代前期、重要文化財、展示番号22)

  紀伊国カセ田荘(現在のかつらぎ町西部)は、荒廃した神護寺の再興を志す僧・文覚の強い要請を受けて、後白河上皇から神護寺へと寄進された荘園です。このカセ田荘については、その景観を描いた神護寺所蔵の絵図がよく知られており、中世に多く成立した、耕地・集落・山野や住民を一体的に支配する新しいタイプの荘園(領域型荘園)の姿をよく表している絵図として、中学・高校のほとんどの教科書に掲載されています。

 一方、紀伊国カセ田荘の荘鎮守としてそのほぼ中央に鎮座する宝来山神社には、この絵図とよく似たもう一枚の絵図が伝えられています(写真)。ただ、この絵図には、神護寺所蔵絵図では五ヶ所に記されている黒い丸印が二ヶ所にしか記されておらず、神護寺所蔵絵図と比較して、黒い丸印があるべき位置の料紙が一度切り取られた後、現在の料紙を貼り合わせるなどの改変が加えられていることが分かっています。貼り合わされた料紙には、そこが  田荘の領域内であることを強調する文字が記されており、この絵図が、神護寺所蔵絵図を模して作成されたしばらく後、領域紛争に際して改変されたことを物語っています。