紀伊国カセ田荘(現在のかつらぎ町西部)は、荒廃した神護寺の再興を志す僧・文覚の強い要請を受けて、後白河上皇から神護寺へと寄進された荘園です。このカセ田荘については、その景観を描いた神護寺所蔵の絵図がよく知られており、中世に多く成立した、耕地・集落・山野や住民を一体的に支配する新しいタイプの荘園(領域型荘園)の姿をよく表している絵図として、中学・高校のほとんどの教科書に掲載されています。
一方、紀伊国カセ田荘の荘鎮守としてそのほぼ中央に鎮座する宝来山神社には、この絵図とよく似たもう一枚の絵図が伝えられています(写真)。ただ、この絵図には、神護寺所蔵絵図では五ヶ所に記されている黒い丸印が二ヶ所にしか記されておらず、神護寺所蔵絵図と比較して、黒い丸印があるべき位置の料紙が一度切り取られた後、現在の料紙を貼り合わせるなどの改変が加えられていることが分かっています。貼り合わされた料紙には、そこが 田荘の領域内であることを強調する文字が記されており、この絵図が、神護寺所蔵絵図を模して作成されたしばらく後、領域紛争に際して改変されたことを物語っています。
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