コラム きのくに仮面の世界

和歌山県の仮面資料について、6つのトピックスから眺めていきます。
更新は4月29日、5月7日、5月11日、5月18日、5月25日、6月1日に行います。お楽しみに。

1、紀伊徳川家初代藩主徳川頼宣(よりのぶ)と能
能面 小尉(こじょう)
 室町〜桃山時代 個人蔵
 江戸時代、能は年中行事や儀礼の際に行われる最も正式な舞踊・音楽(式楽)として位置づけられていたため、大名家はこれを深くたしなむ必要があった。紀伊徳川家初代藩主の徳川頼宣は、幼少のころより能に優れた才能を見せていたようで、父・徳川家康は彼に能役者を家臣として付けていたほどであった。そのため頼宣入国後の紀伊国では、和歌山城や江戸の紀伊藩邸で行われる公式の能のほか、各地の別邸で私的な演能も数多く行われるなど、能の文化が花開いていた。
 この頼宣時代の能のようすを知るための資料は、現在ほとんど残されていない。そんな中、昭和9年(一九三四)に紀伊徳川家の末裔の手を離れて民間に流出していた能面11面の存在が、近年明らかになった。これは、仮面に付けられた付箋や付属文書の情報から、頼宣が家康から直接拝領した面や、家康の死後に御三家(尾張・紀伊・水戸の徳川家)に分けられた御分物(おわけもの)にあたるものとして伝来してきたことが分かる。それぞれの面は室町時代から桃山時代にかけて作られた堅実で優れた作行のものである。また各面には、収納時に入れておく豪華な面袋も用意されていて、これは中国・明時代の舶来の品や、特別にあつらえた金襴を用いたもので、紀伊徳川家ならではというべき水準を見せている。
 さらに能面を収納するための、鶴を蒔絵で描いた漆塗の面箪笥も残されてきた。紀伊藩お抱え能役者の徳田隣忠が著した記録に、「鶴の丸」という面箪笥には頼宣が家康よりもらった面が入れられていて、それを頼宣の長男、徳川光貞が能役者に使用させたことが記されている。こういった情報との一致も含め、これらの仮面が紀伊徳川家に伝来したものであることは確実で、家康所用の品とする伝承も信憑性が高い。
 紀伊徳川家の手を離れ流転していたこの資料は現在、所蔵者のご厚意により、頼宣のいた和歌山城のすぐそば、県立博物館の収蔵庫で保管させて頂いている。

2、和歌祭「百面」行列使用の仮面
狂言面 祖父(おおじ)
 室町時代 紀州東照宮蔵
 紀伊徳川家初代藩主の徳川頼宣は、紀伊国に入国後、風光明媚な和歌浦に父・家康をまつる紀州東照宮を造営した。この東照宮で行われる春の祭礼・和歌祭は、神輿のあとを多くの仮装行列が練り歩く盛大なもので、今年は5月15日に行われる。この行列の中に現在「百面」と呼ばれている、仮面をかぶって仮装する集団がある。江戸時代においては「面掛」などと呼ばれていたもので、近代以降、呼び名が変化したようである。
 この百面(面掛)で使用されている仮面を調査したところ、総数96面に及ぶ大規模なもので、能面・狂言面・神楽面・鼻高面・神事面といったさまざまな種類の仮面が含まれていることが判明した。なにより注目されたのは、室町時代の猿楽(能・狂言)で使用されていたと思われる古い仮面が多数含まれていたことである。例えば写真の祖父(おおじ)は豪快に笑うユニークな表情の仮面で、室町時代前期に製作されたものと思われる。この面のようなスケールの大きい造形は、のちの能面や狂言面には引き継がれない要素であり、中世の仮面ならではの魅力である。
 その他にも、桃山時代〜江戸時代頃の堅実で整った作風の能面が多くあり、その中には「天下一友閑」という焼印のあるものが7面含まれている。友閑は17世紀前半頃に活躍した仮面製作の名人、出目満庸(でめみつやす)のことで、「天下一」とは優れた職人に与えられた称号である。こういった名人の製作した仮面は江戸時代においても簡単に集められるものではなく、これら仮面の収集にあたっては紀伊徳川家が関与していた可能性が高い。
 現在も使用されているこれらの仮面のほとんどは大きく破損している。保存と活用という難しいバランスの中、現在、NPO和歌の浦万葉薪能の会が新しい仮面を製作して神社に奉納する事業を行っている。先人の伝えてきた文化財を未来へと残していくためにも、初めて明らかになった百面の全貌をふまえたこれからの取り組みが重要である。

3、如来・菩薩をあらわした仮面
 
行道面 菩薩
 南北朝〜室町時代 上花園神社蔵
行道面 如来
 鎌倉時代 上花園神社蔵
 伊都郡花園村の上花園神社には、如来や菩薩の顔を表した行道面が残されていることが和歌山県立博物館の調査で判明した。その内訳は如来面が1点、菩薩面が14点で、作風の違いから製作年代は3つの時期に分かれている。
 如来面と菩薩面のうち2面が鎌倉時代後期のもので、残りの菩薩面は6面ずつ、南北朝時代のものと、それよりはやや遅れる時期のものに分かれている。おそらく芸能のあり方が時代によって変化し、そのたびに新しい仮面が追加されたものと考えられる。これらは記録によれば、江戸時代後期にはすでに仮面だけが残されていて「レンジの舞」で使用されたものと伝えられていた。「レンジ」はおそらく「レンゾ」の誤りで、「練道」のなまったことばである。これは阿弥陀如来と菩薩が練り歩く法要を指す言葉であって、最終的に行われていた芸能はお練り供養、すなわち来迎会であったと考えられる。では、それ以前はどのような芸能であっただろうか。
 一番古い如来面や菩薩面について確実なことは分からないが、寺院の堂内で舞を舞う「仏舞」という形態の芸能の可能性がある。その後、菩薩面6面が追加された。この追加された菩薩面の中に、ユニークな仮面が2面含まれている。それは冠をかぶった菩薩面であるにもかかわらず、その顔が女性の表情をリアルにあらわしたものなのである。能の女面の原型ともいえる造形であるが、抑揚が強く立体的で、抽象化した能面の表現には見られない躍動感にあふれ、魅力的な表情を見せている。上花園神社と同じ花園村・遍照寺に、県指定無形民俗文化財の「花園の仏の舞」という芸能が継承されている。これは龍王の娘、龍女が文殊菩薩の導きで仏になるという物語で、劇中に女性が登場するものである。あるいは上花園神社でも、女性が登場する同様の物語構成を持った芸能に変化した可能性があろう。
 仮面だけが知っている地域の忘れられた歴史が、今よみがえりつつある。

4、天野社と上花園神社の仮面
 
青鬼
 南北朝時代 上花園神社蔵
父尉
 室町時代 上花園神社蔵
 上花園神社に如来・菩薩をあらわした仮面15面が残ることを前回紹介した。神社にはそれだけでなく、他にも獅子子(ししこ)・鬼・父尉(ちちのじょう)・黒色尉(こくしきじょう)の仮面が残されていることが分かった。
 まず最初に獅子子という仮面は、赤い肌で笑みをたたえたもので、古い舞楽の演目「獅子」で、獅子の口をとって歩く役として用いられたものである。すなわち同社では舞楽が行われていた可能性があるということになる。次に鬼の面は、青鬼と赤鬼の2面が残されていた。筋肉の表現などは形式化せず自然で、萎縮していない伸びやかな造形に、それぞれ表情にはややおどけたところが見られ、製作されたのは南北朝時代と考えられる。父尉と黒色尉は室町時代前期頃の作で、それぞれあごの部分が切り離され紐でつないだ技法が用いられる。これら翁系統の仮面は神の表情をあらわしたもので、祝言の舞である翁舞で用いられたものである。
 さて、これらの仮面はそれぞれかつらぎ町の丹生都比売神社(天野社)に残されていた仮面と類似するところが多い。天野社では定期的に舞楽が行われていて、高野山やその周辺の人々にとって舞楽は身近な芸能であった。天野社の舞楽面は優れた造形のものが数多くあり、現在は東京国立博物館が所蔵している。同じく東京国立博物館の所蔵となっている鬼の面は、面裏に正和2年(1313)と記されたもので、上花園神社の鬼面に比べてやや武骨で、迫真的なところがある。上花園神社の父尉・黒色尉のセットに似たものとして、父尉と尉の二面が残されている。天野社で現在も継承される「天野の御田」という芸能で用いられた仮面という。このように天野社と上花園神社の仮面はよく似た構成を示している。
 上花園神社は天野社の祭神、丹生高野四所明神を勧請した神社で、本社と末社の関係にある。おそらく本社で行われていた芸能が、周辺地域でも継承され行われていたという実態があったのだろう。中世・高野山周辺では、今では想像できないほど、多様な仮面芸能が盛んに行われていたことが、ようやく分かりつつある。

5、河根丹生神社の仮面
 
猿楽面 獅子口
室町時代 河根丹生神社蔵
猿楽面 狸
室町〜桃山時代 河根丹生神社蔵
 高野山周辺に広がる荘園で暮らす人々は、地域ごとに鎮守の社を精神的な拠り所と して結束していた。鎮守社で行われる祭礼(お祭り)は、その結びつきを確かなものとするための重要な儀式であり、仮面芸能はその祭礼に欠かせないものであった。すなわち仮面芸能は単なる娯楽や余興ではなく、神事として位置づけられていたものなのである。
 伊都郡九度山町河根に所在する河根(かね)丹生神社に、現在12面の仮面が残されている。それらは猿楽(能・狂言)で用いられたもので、室町時代中期の面打(面の製作者)檜垣本七郎が製作した獅子口(ししくち)のほか、狂言で用いられる滑稽な役の面が5面含まれるなど、室町時代から桃山時代にかけて製作された、優れた出来映えの仮面群である。このうち7面の面裏には「ヨシフク井ンキシン」と記され、高野山上にかつてあった寺院・吉福院が、村の祭礼で用いられる道具をあつらえているという実態が具体的に判明する。では、寄進されたのはいつ頃であろうか。
 河根丹生神社の所在する九度山町河根に隣接する同町丹生川は、かつて二つの村で炭香荘ともよばれた関わりの深い地域である。この丹生川の丹生神社でも祭礼の際には猿楽が行われていた。猿楽はふつう専業の猿楽役者が行うもので、丹生川丹生神社では大和国の吉野衆(桧垣本猿楽)がここで猿楽を行う権利を持っていた。河根丹生神社に吉野衆の構成員、檜垣本七郎の仮面があることを考えれば同様の状況であったと思われる。しかし慶長13年(1608)、吉野衆はここで猿楽を行う権利を返上している。おそらく活動の基盤を都など中央へと移したのであろう。これ以来、神事である猿楽は荘民自ら手猿楽(てさるがく)として行うようになったのではないかと思われる。吉福院による寄進は、それへの援助であったのだろう。
 仮面は地域の歩んだ歴史を今に伝えてくれる、貴重な証人なのである。

6、古沢厳島神社の仮面と能装束
 
猿楽面 悪尉
室町〜桃山時代 古沢厳島神社蔵
萌黄地唐花尾長鳥文様繍狩衣
桃山時代 古沢厳島神社蔵 重要文化財
 高野山へと登る道の途中、九度山町上古沢に古沢厳島神社がある。つい最近、ここ に残されていた桃山時代の能装束が重要文化財に指定されたことをご記憶の方もいるだろう。この装束のうち狩衣は、おおぶりな尾長鳥を刺繍で表した豪快なもので、日本に残る能装束の初期の作例として、発見後すぐに重文指定の運びとなった。
 同社には、装束の他に江戸時代以前に作られた猿楽(能・狂言)面が10面残される。中でも、大変恐ろしい顔をした悪尉(あくじょう)の面裏には、慶長15年(1610)に高野山南谷真徳院が作って古沢の人たちに寄進したことが記されている。この銘文を見 る限り悪尉は慶長15年に製作されたようであるが、しかし普通の悪尉とは大きく異なった自由で豪快な造形は古い要素であり、簡単に決めつけられない。この時期に神社では何があったのだろうか。
 これらの装束や仮面とともに、一通の古文書が残されている。「古沢色衆之道具の日記」と題されたもので、そこには「おもて拾かけ」や「カリキヌ」などの道具が列記され、最後に悪尉と同じ慶長15年の年紀が記されている。これは猿楽(能・狂言)を行う上で必要な道具を書き上げたものである。前回、同じ九度山町の河根丹生神社では慶長13年(1608)以降、神社の祭礼でおこなう猿楽は荘民自ら行うようになった可能性を述べた。おそらく古沢厳島神社でも同様で、この頃に荘民が自分たちで猿楽を行うために、関係する高野山上の寺院が仮面や衣装を提供したようである。同社の10面の仮面はそれぞれ彫り方や彩色などが一様でなく、色々な仮面が集められたようである。悪尉も古い仮面に寄進の年を書き入れたものかもしれない。
 残されてきた仮面は、昔の人々の息づかいを今に伝えてくれる貴重な文化財である。和歌山県には、まだまだ多くの仮面が人知れず残されているだろう。(−終わり−)

文 大河内智之(学芸員)

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