明秀上人坐像(みょうしゅうしょうにんざぞう) 江戸時代 浄教寺蔵
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有田郡有田川町長田の浄教寺は、文明4年(1472)に創建された浄土宗西山派(西山浄土宗)の寺院である。和歌山県内では、和歌山市から紀中地域にかけて数多くの西山派寺院があり、南は田辺市までその教線は伸びている。この西山派の勢力拡張に功績があったのが、浄教寺の開山、明秀上人(写真)である。
明秀は応永10年(1403)の生まれで、若くして出家し、関東で浄土教学を学んだ。その後、永享年中(1429〜41)に広川町に法蔵寺を建立したのをはじめに、和歌山市梶取の総持寺など紀伊国内に18か寺を建立・中興した。代表的な著作に『愚要鈔』があり、これは布教のための問答集といった内容で、その優れた民衆教化の力量をうかがうことができる。晩年は海南市曽根田に竹園社を建立して隠居し、長享元年(1487)に逝去した。廟所である石室が竹園社の境内に残されていて、和歌山県指定史跡となっている。
明秀の出自については、室町幕府成立の立役者、播磨国守護赤松則祐(円心)の孫とも、ひ孫とも伝承される。しかしそのことを裏付ける確かな史料は残されていない。実は、日高郡印南町西ノ地の赤松山に、赤松則祐が築城したという中世の城跡がある。あるいはこの城を根拠地とした「赤松氏」の存在も、明秀の出自を考える上で一考の余地がありそうだ。
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