コラム 浄教寺の文化財

企画展「浄教寺の文化財」に出陳されている資料について、5つのトピックスから眺めていきます。
更新は1月28日、2月7日、2月12日、2月19日、2月25日に行う予定です。

1、浄教寺開山・明秀上人(1/28UP)
明秀上人坐像(みょうしゅうしょうにんざぞう)
 江戸時代 浄教寺蔵
  有田郡有田川町長田の浄教寺は、文明4年(1472)に創建された浄土宗西山派(西山浄土宗)の寺院である。和歌山県内では、和歌山市から紀中地域にかけて数多くの西山派寺院があり、南は田辺市までその教線は伸びている。この西山派の勢力拡張に功績があったのが、浄教寺の開山、明秀上人(写真)である。
 明秀は応永10年(1403)の生まれで、若くして出家し、関東で浄土教学を学んだ。その後、永享年中(1429〜41)に広川町に法蔵寺を建立したのをはじめに、和歌山市梶取の総持寺など紀伊国内に18か寺を建立・中興した。代表的な著作に『愚要鈔』があり、これは布教のための問答集といった内容で、その優れた民衆教化の力量をうかがうことができる。晩年は海南市曽根田に竹園社を建立して隠居し、長享元年(1487)に逝去した。廟所である石室が竹園社の境内に残されていて、和歌山県指定史跡となっている。
 明秀の出自については、室町幕府成立の立役者、播磨国守護赤松則祐(円心)の孫とも、ひ孫とも伝承される。しかしそのことを裏付ける確かな史料は残されていない。実は、日高郡印南町西ノ地の赤松山に、赤松則祐が築城したという中世の城跡がある。あるいはこの城を根拠地とした「赤松氏」の存在も、明秀の出自を考える上で一考の余地がありそうだ。

2、引き継がれた最勝寺の歴史(2/7UP)
十二天像(風天像)
明応10年(1501)
浄教寺蔵
 有田川町の浄教寺は文明4年(1472)の創建であるが、寺にはそれ以前に制作された文化財が多数所蔵されている。例えば鎌倉時代初期の大日如来坐像や仏涅槃図(ともに重文)などである。そこにはどういった背景があるだろうか。
 同寺に所蔵される十二天像に注目してみよう。これは紙に版刷されて表されたもので、そのうち風天像(写真)裏面の銘文によれば、この十二天像は神谷山最勝寺の僧侶が明応10年(1501)に納めたものであり、さらにその最勝寺から天正年間に浄教寺にもたらされたことが記される。
 最勝寺は浄教寺のごく近隣にあった密教寺院である。田殿丹生神社が麓に鎮座する、見事な三角形の姿を見せる白山裏側の谷筋に立地していた。平安時代後期の創建と伝えられ、室町時代の終わり頃には廃絶したようで、浄教寺の文化財の多くはこの最勝寺からもたらされたものという。そういった伝承を、この十二天像の銘文は裏付けてくれる。
 最勝寺と浄教寺は室町時代の後半において並存していた寺院であるが、実は江戸時代になって、最勝寺を改宗して浄教寺にしたとする縁起が作られた。それは、より古い縁起を取り込むことで寺格を上げ、寺社奉行直支配となるための方策であったと考えられる。同じ地域の中で交差する二つの寺院の歴史が、今ようやく紐解かれつつある。

3、重要文化財 仏涅槃図(2/12UP)
仏涅槃図(重要文化財)
鎌倉時代 浄教寺蔵
 有田川町の浄教寺には、かつて近隣にあって室町時代の末期に廃絶した最勝寺から、多くの文化財が引き継がれている。重要文化財に指定されている仏涅槃図(写真)もその一つだ。涅槃図とは釈迦如来が亡くなった際の情景を描いたもので、縦横およそ2メートルに及ぶ浄教寺本は、諸尊の表情も凛々しい鎌倉時代初期の名作である。本図が初めて文化財指定されたのは明治30年12月28日のこと。これは同年に制定された古社寺保存法による第1回目の指定で、日本最初の「国宝」の一つである。なおこの「国宝」という呼称は、昭和25年の文化財保護法が制定された際に重要文化財へと呼び替えられている。
 この仏涅槃図は、その大画面もさることながら、良質な顔料や優れた技法から当時の一流の画工が制作に関わっているものとみられ、たやすく入手できるものではなかったはずだ。画面の細部に注目すると、釈迦如来のまわりに十六羅漢が取り巻いていたり、横たわる釈迦の上に天蓋が描かれ、そこに宝珠が乗せられているという特徴的な描写がうかがえる。こういった情報は、湯浅氏出身の高僧で、日本仏教史上に名を残す、明恵上人(1173〜1232)の思想と関連があることが明らかになっている。釈迦を父と仰いで修行に明け暮れ、有田地域で涅槃会を行った明恵の、その足跡を今日に知らせてくれる一幅である。

4、重要文化財 大日如来坐像(2/19UP)
大日如来坐像(重要文化財)
鎌倉時代 浄教寺蔵
 浄教寺には二件の重要文化財が所蔵される。前回紹介した仏涅槃図ともう一つ、大日如来坐像(写真)である。大日如来は密教における中心的な尊格であるので、浄土宗西山派寺院である浄教寺の教義とは、やや性格が異なる。この像も浄教寺の近隣にあった密教寺院、最勝寺から引き継がれたものと考えられる。像高87.0p、肉身には張りと弾力があり、目尻の切れがった理知的な表情が印象的である。その若々しく緊張感のある姿は、鎌倉時代初期の一時期に現れた、日本の仏像が到達した最高峰の造形を示している。
 ところで最勝寺跡には明恵(1173〜1232)の遺跡がある。京都の神護寺や高山寺を拠点とした明恵は、修行に適した環境を求めて、たびたび故郷の有田地域に戻っている。明恵の死後にその修行の場が、弟子喜海によって明恵紀州八所遺跡として顕彰された。最勝寺裏山にはそのうち神谷後峰遺跡があり、石製卒塔婆が建てられている(国指定史跡)。明恵はこの地で、自らの一族(湯浅党)に生じた所領問題を解決するために、災難を除く修法である大仏頂法を行っている。本像についてはその大仏頂法の本尊、大仏頂尊である可能性を説く見解があって魅力的である。制作時期としては、承元2年(1208)に養父崎山良貞の屋敷を寺として明恵に寄進されているが、この時である可能性が考えられる。

5、修復された当麻曼荼羅(2/25UP)
当麻曼荼羅
鎌倉〜南北朝時代 浄教寺蔵
 当麻曼荼羅とは、阿弥陀如来の住む極楽浄土を中心に描いて、周囲に配置された小画面にそこへの往生の方法を示したものだ。中国・唐時代(あるいは奈良時代)に制作された奈良県・当麻寺の本尊像がこれであることから、そう呼ばれる。正式な名称は観無量寿仏経変相図。この図を「当麻曼荼羅」として全国に広めたのは、法然上人の高弟、浄土宗西山派の祖である証空上人(1177〜1247)である。証空は普段から『観無量寿仏経疏』というお経を用いてその教えを説いていたが、ある日当麻寺に参拝したところ、その本尊像がこのお経の内容そのものを描き出していることに歓喜して、数多くの写しを造って流布させたのだ。すなわち浄土宗西山派の教義上、大変重要な画像といえるものである。  浄教寺に伝わる当麻曼荼羅(写真)は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃に制作された大幅である。よく用いられたようで、画面が割れてしまうほどに傷みが目立っていたが、平成16年度に住友財団などの助成を受けて修復が行われた。施工は田辺市の竹泉堂。修理の過程で軸の中から明暦3年(1657)の古文書が見つかり、これによればこの時、京都において修理が行われていたことが分かった。350年ぶりの修理で、近世前期における表具修理の実態が具体的に判明するという、貴重な成果もあげることができた。(−終わり−)


文 大河内智之(学芸員)

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