明恵


湯浅党は、一族の子弟を京の寺院に入れ、中央での窓口としていた。明恵(一一七三〜一二三二)も当初はそうした目的から神護寺に送り込まれた。彼は湯浅宗重の娘と平家家人平重国との間に生まれた男子で、両親の死後、文覚の高弟上覚(湯浅宗重の子)の弟子となり、一六才で出家する。その後、厳しい修行を積み学問を極め、やがて華厳宗中興の祖と呼ばれるようになる。彼が郷里の有田地方で修行した場所は「八所遺跡」として今も保存されている。