惣村の発達


鎌倉時代も後半になると、力を付けた農民たちは、惣村と呼ばれる自治組織をつくるようになった。彼らは寄合を開き掟を定め、用水や池を共同で管理した。時には武器をとって武士と闘い、また用水の配分をめぐって近隣の惣村と争うこともあった。紀伊国では、紀ノ川筋の村々に惣村の著しい発展が見られ、特に鞆淵の荘や粉河荘園東村(ともに那賀郡粉河町)の惣村は史料が豊富で、その実態を詳しく知ることができる。

鞆淵荘では、南北朝時代に入ると、農民達が惣村をつくり、村政を自治的に運営していく。荘園領主高野山の支配強化の動きに抵抗し、また夫役(労働の負担)を、めぐっては、下司(荘官で在地の武士)と武力で真正面から対決した。彼らが団結する基盤となっていた鞆淵八幡神社には、農民たちがみずから定めた掟書(置文)など、惣村の歴史を語る古文書が数多く残されている。また本殿と大日堂は、惣村の時代の姿を伝える建造物である。

鞆淵の荘の惣村と鞆淵神社