鞆淵荘では、南北朝時代に入ると、農民達が惣村をつくり、村政を自治的に運営していく。荘園領主高野山の支配強化の動きに抵抗し、また夫役(労働の負担)を、めぐっては、下司(荘官で在地の武士)と武力で真正面から対決した。彼らが団結する基盤となっていた鞆淵八幡神社には、農民たちがみずから定めた掟書(置文)など、惣村の歴史を語る古文書が数多く残されている。また本殿と大日堂は、惣村の時代の姿を伝える建造物である。