動乱の時代


南北朝の抗争は、紀州においても武士や寺院などの諸勢力を動乱に渦中に巻き込んでいった。その過程で、紀州最大の武士団であった湯浅党は南朝に殉じて没落する。その後、紀南では湯河氏を盟主とする国人一揆が台頭し、一方紀北では雑賀党・根来衆といった土豪連合が成長した。紀伊国では、戦国時代を通じてこうした諸勢力の割拠時代が続き、戦国大名のような突出した政治権力は発生しなかった。

浄土真宗(一向宗)の浸透


浄土真宗(一向宗)の紀州への浸透は、南北朝時代にはじまる。当初は漁民たちを中心にうけ入れられたようである。文明一八(1486年)に、本願寺八世蓮如が冷水浦(海南市)に下向し、門徒の拠点として御坊が置かれた。やがて、雑賀衆などの土豪層が門徒化し、彼らは本願寺の有力な支持勢力となっていった。その後、御坊の場所は黒江(海南市)、弥勒寺山(和歌山市)と次第に北に写り永禄六(一五六三)年、一一世顕如の下向により鷺森(和歌山市)に定まった。