熊野の経塚


経塚とは、平安時代後期以降、末法思想の広がりを背景に、仏教の衰滅を恐れた貴族や僧侶が、法華経などの経巻を経筒に入れ仏具類とともに地中に埋蔵したもの。経塚の築造には霊地などの特別な土地が選ばれ、熊野にも多くの経塚がつくられた。それは熊野詣の目的のひとつでもあった。今日、その豊富な内容は、我が国の経塚研究のうえで重要な意味をもっている

本宮経塚出土陶製外筒


文政八(一八二五)年、熊野本宮の付近から経塚が発見された。(『熊野年代記』)。この時出土した経筒の外容器は渥美窯製とされ、現存する経筒類としては最大のものである。側面には銘文七行五一文字が刻まれており、保安二(一一二一)年に願主良勝と壇越秦親任とが、大般若経六〇〇巻を五〇巻ずつに分けて、この地に埋納したことがわかる。かつて本宮社地周辺にも新宮や那智と同様に多数の経塚が造営されたであろうことを想像させる。