学問の発達


紀州徳川家は、優秀な人材を招き、家格にふさわしい学問を備えようとした。頼宣は民間の儒学者李真栄をとりたて侍講とし、また藤原惺窩(せいか)四天王の一人那波活所(なわかっしょ)を招いた。二代光貞は、折衷学(儒学の一派)祖榊原篁洲を高禄で迎える。十代納宝(はるとみ)は国学者本居宣長を召し、その養子大平は和歌山に移り、紀州の国学はこのころ大いに栄えた。また、民間からも華岡青洲のような優れた医学者を輩出している。

医学


華岡青洲(一七六〇〜一八三五)は、那賀郡西野山村(那賀町)の医師の子として生まれ、京に古医方・外科を学ぶ。やがて乳癌手術の実現を志し、麻酔薬の研究に取り組むようになった。そしてついに文化元(一八〇四)年、世界で初めての全身麻酔による乳癌摘出手術に成功する。後進の育成にもつとめ彼の私塾春林軒に学んだ多くの門人たちによって、華岡流外科医学は全国に広められ、地域の医療の発展にも大きく貢献した。